| 秤の初めは梃子の原理を利用した天秤で,紀元前1万年前には存在していたようです。やがて一定質量の錘が作られ,竿(棹)と分銅を用いた計量が行われるようになりました。 秤量の精度向上は温度や圧力の計測と共に近代化学を飛躍的に発達させました。今回は秤と錘と分銅の歴史をご紹介します。 |
重さの計量の始まり
竿棒の両端に等しい重さの荷物をかけ,それを肩に担いで運ぶ作業の起源はかなり古く,そこから天秤が発明されました。天秤では,竿の両端に重心(支点)から等しい距離に皿を紐で吊り下げ,釣り合わせることで重さが計量されます。
古代エジプトの「死者の書」には死者の裁判の場面が描かれています。死者は,ヤマイヌ(豺)の頭をもち冥界の門を開く神アヌビス(Anubis)に導かれ,魂(心臓)と正義の女神マアト(Maat)の羽毛との軽重を天秤で較べられて真実と邪悪,生前の罪業の判定を受けます。
重さの計量は,都市が発達して経済活動が盛んになり,貴金属や宝石に価値が認められるようになると重要になりました。香料や薬品などにも広がり,計り売りや商取引で使われました。化学では調剤や実験での正確な計量に不可欠となりました。
天秤だけでは一方の皿に載せた物と他方の皿に載せた物の軽重しか分からないので,いろいろな物の重さを知るには複数の分銅が必要です。そこで重さの基準量が決められ,基準量の倍量単位や基準量を等分した分量単位をもとにして組分銅が作られました。重さの基準量には客観性と共に不変性と普遍性が求められ,一般に麦や黍などの穀物が選ばれました。例えば中国の漢では10粒の黍の重さは絫(累は異体字)と呼ばれました。粒が小さい穀物を使うことで精度(計量可能な最小量と最大量の比)は1000分の1程度が実現されました。
秤の進化
天秤には据え置いたときの水平を調整するための下げ振りや水準器も備えられました。ローマ時代になると交易が盛んになり,商用の秤が求められました。しかし据え置き式の天秤は携行に適さず,腕の長さが異なる秤が新たに考案されました。これはローマ秤(桿秤,扛秤とも)と呼ばれ,試料を皿に載せたり鈎にかけたりしてから錘を使って桿を水平にし,錘の位置や桿に刻まれた目盛りで重さを読み取りました。
天秤では分銅と試料の重さの一致が明瞭に示されます。例えば「天秤に掛ける」とは優劣や損得を較べることで,「両天秤に掛ける」と言えば,どのような結果になっても困らないように対立する双方に関係を付けておくことです。
ローマ秤は,持ち運びが容易なことから例えば容積の大きな荷駄や肉塊の計量も可能で,錘の種類が少なくて済むことが利点です。その一方で,桿の釣り合いをとるときに人の手が加わることや,桿の水平を判定するための指標が無いことから,計量結果に人為的な操作や個人差が入る余地があります。それは時として取引の公正さに影響しました。

やがて上皿式天秤も考案されましたが,その場合には改良すべき点がありました。皿を単に竿の上に固定しただけの天秤(A)では,皿を吊り下げる方式とは異なり,竿が傾くと皿の面も傾くことに加えて,試料と分銅の質量が同じでも,それらを置く位置の支点からの距離が異なると釣り合わないことが難点でした。

これを解決したのがフランスの数学者G.ロベルヴァルで,彼は1669年に新たな機構の天秤を考案しました。ロベルヴァルの天秤(B)では,竿2本と皿の支柱2本とで自在に動く平行四辺形の枠を形成します。皿の支柱は上下に動くだけなので皿は傾かず,皿に載せた試料と分銅の質量が同じであれば載せる位置に関係なく釣り合います。
度量衡と分銅
分銅は,木・石・陶器・金属などで作られ,多くの場合,複数個が組になっていました。その形は単なる塊状から方形,円筒形や上下が平らな球状になり,神聖とされる動物(鳥,蛙,犬,獅子,象,牛,山羊,亀など)をかたどったものも作られました。2013(平成25)年に大阪府の亀井遺跡(八尾市南亀井町)で輝緑岩(暗緑色の玄武岩質岩石)などの石11個が出土し,これらは約2400年前の分銅であると考えられています。石の質量は,最も小さい石の2・4・8・16・32倍になっていて,6個で1組と考えられ,元は2組あったと推定されています。

石製の組分銅(亀井遺跡出土,大阪府教育委員会所蔵)
(写真提供・公益財団法人大阪府文化財センター)
養老律令は,藤原不比等らが718(養老2)年に大宝律令(701年)を修正し撰定したもので,律(10巻12編)と令(10巻30編)から成ります。令の第三十・雑令にある〈度十分条〉は,度(長さの単位)・量(容積の単位)・権衡(重さの単位)に関する規定で,権衡は24銖を両とし,3両を大両の1両とすること。16両を斤とすること,とあり,続く〈度地条〉には,土地の測量,銀・銅・穀類を量るときには大両を用い,これ以外は,官私共に両を用いること,とあります。
さらに,〈用度量条〉には,度量権(=度量衡)を用いる官司には,みな様(=標準原器)を支給し,その様は銅で作ること,とあります。(⇒キログラム原器についてはココをクリック)
2025(令和7)年,岐阜県の真名越遺跡(各務原市鵜沼真名越町)で奈良時代の須恵器などと共に銅製の錘(幅3.5㎝,高さ3.4㎝,重さ約100g)が出土しました。これは花弁の模様が付いた笠形で,上部に鎖の一部が残っています。端正な形であることから,中央から地方の役所へ配付された様と考えられ,これを基準として土,石,鉄などで錘が作られたのでしょう。
権 (律令制の錘)
(各務原市立中央図書館,令和7年10月・撮影)
「権」の字は「錘,重さの計量,謀,釣り合い」などの意味をもっています。権(權は旧字体)の元の字は木偏を手偏(扌)に変えた字で,旁の雚は分銅を意味します。また,権は拳と同音で,その意味するところはけんせき拳石,すなわち石製の錘のことであるとする説もあります。
権(権衡器)は,秤の衡(秤竿,秤棹)を水平にするために動かして使われます。権のもつそうした役割から,権の力(権力)を握り,権の勢い(権勢)を自在にする意味,利を得る(権利)意味の言葉ができました。さらに権道(目的を達するためにとる便宜的な手段)や権変(その場に応じて適切な手段をとること)という語も生まれました。なお,「衡」の字義は,牛飼が牛の角に触れるのを防ぐために角に付ける大きな木のことであり,それが横木であることから秤竿のことを表すようになったとされます。
また,「様」の字には,敬称(姓名や職名に付ける),丁寧語(「ご苦労様」,「お互い様」など),「ありよう,ありさま」に加えて「かた」(形,型,方)の意味もあります。「かた」とは「手本,法式」,「鋳型,雛形」,「あや,もよう」のことで,重さの原器としての様は,この「かた」の意味です。
分銅と貨幣
中国の明では天秤は「天称」と呼ばれ,「天平」と略されました。日本では室町時代に貨幣制度が発達し,幕府は明から銭貨(明銭)を輸入し,天秤もその頃に伝えられたと考えられています。天秤は金塊,銀塊の両替に使われ,この頃,重さの標準とする分銅は「法馬」(琺瑪)と呼ばれていました。
江戸時代の銀貨(丁銀,豆板銀)は秤量貨幣(称量貨幣)で,両替商で量目(質量)を計量して通用価値や交換価値が定められました。この計量で用いられる分銅は青銅製の組分銅で,不正防止のため後藤四郎兵衛家だけで製作することが許されたので「後藤分銅」と呼ばれ,その他の分銅の製作・使用は禁止されました。
後藤分銅の形は蚕の繭に由来するとされます。絹は江戸初期には貴重品で,繭形の意匠は両替商の看板にもなり,銀行を表す地図記号(⛻)は国土地理院の地形図や道路地図などでおなじみです。

後藤分銅
出典:As6022014による”後藤分銅の画像”
ライセンスはCC BY 3.0
(WIKIMEDIA COMMONSより)
後藤家は,室町時代に御用達彫金師になり,織田信長や豊臣秀吉の装剣具の彫刻を行いました。徳川家康にも仕え,大判の鋳造と墨判,そして両替商の分銅の鋳造を請負いました。五代目の徳乗は1608(慶長13)年の吹き替え(改鋳)を担当して大判・小判を鋳造し,以来後藤家は江戸期を通じて金座で金貨と分銅を鋳造するようになりました。初代の祐乗から七代の顕乗までは屋敷を京に置きましたが,八代の即乗は幕府から江戸詰めを命じられ,以降は江戸に屋敷を拝領して住まいました。
大判の表裏の文字墨書は品位の証明であり,擦れて墨が消えると後藤家に持ち込んで書き改めを受けました。大判の鋳造は,当初は京で行われましたが,元禄期以降は江戸で行われるようになり,墨書の書き改めは京と江戸で行われました。
分銅金(法馬金)は,江戸時代に非常御備金(不時の用に備えた貯蔵用の金塊)とされ,大法馬金(44貫≒165㎏),それを鋳直して小分けした小法馬金(100匁≒373g)がありました。小法馬金(金含有率約95%)は現在,4種類が貨幣博物館(東京都中央区日本橋本石町)に所蔵されています。
次の写真は,1888(明治21)年12月に発行が開始(1939(昭和14)年3月に通用停止)された日本銀行兌換銀券の五圓札で,「分銅五圓」とも呼ばれ,人物肖像が入った最初の日本銀行券でもあります。券面の中央には分銅が意匠化され,肖像は菅原道真です。

分銅の意匠がある五圓札
出典:Heavy Friskerによる
”Series Kaizo 5 Yen Bank of Japan note – obverse”
ライセンスはCC BY-SA 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)
錘と分銅について『ものと人間の文化史48 秤』で小泉氏は,錘は権から作られるもののことであり,分銅は分銅金の形をした鋳塊であるとしています。また,金,銀や銅を一定の重さに鋳込んだ物は「ふんどん」(法馬)と呼ばれ,「ふんどう」という語は,等量に分ける意味の「分等」あるいは銅塊に始まるので「分銅」に由来するのではないか,冶金や精錬の従事者が鋳塊を製造する際に重さの基準とする物を仲間内で「分銅」と呼び習わし,それが錘の意味でも広まったのではないか,と考察しています。
「分銅屋のえんとつ」
分銅に関連して,山口市出身の作家,氏原大作による小説『分銅屋のえんとつ』をご紹介します。『分銅屋のえんとつ』は昭和期の小学校国語教科書にありました。
分銅屋は「むかしお城があったころには,小さいながらもにぎやかな町だったそうだが,今はすっかりさびれ」た町の造り酒屋で,その煙突にはペンキで「金分銅」と大書されています。看板銘柄の「金分銅」は名酒との評判から城の御用を一手に引き受けたほどでした。分銅屋の隠居は幼い孫に話を聞かせ,孫はそれに聞き入ります。
隠居は酒屋の再興を願い,「早く大きくなって,えんとつのてっぺんからけむりを出して,このおじいさんに見せておくれ」と孫に話すのでした。隠居と孫は火のない竈の中に入り,煙突に風が入って生じる共鳴音の〝交響楽〟を一緒に聞くこともよくありました。
あるとき孫は,「えんとつの頂に見えている,月ぐらいの大きさの丸い空を見上げ」ると,「暗い長いえんとつのつつを通して,空のずっとおく深く,かすかにひそんでいる星をみつけ」,不思議に思いました。
隠居は,星は昼間も空にあるが太陽の光が眩しいので見えない。しかしこうして長い煙突を覗くと見えるようになる,と孫に説明しました。それは隠居が専門の学問から得た知識ではなく,「けむりの出ないえんとつを通して,天然の音楽を聞きくらしているうちに,いつのまにか発見した」ことでした。
例えば望遠鏡の鏡筒は,次の図のように星から届く光を,それよりも明るい光を遮ることで見やすくしています。顕微鏡の鏡筒でも同様です。JICA(国際協力機構)でアフリカに派遣されたことがある人から,地面に掘った井戸の底に下りたときに空を見上げたら昼間でも星が見えた,という体験を聞いたことがあります。

参考文献
「新訳ダンネマン大自然科学史 第1巻」安田徳太郎訳・編(三省堂,1977年)
「ものと人間の文化史48 秤」小泉袈裟勝著(法政大学出版局,1982年)
「新 心にのこる6年生の読みもの」長崎源之助編(学校図書,1996年)
日本銀行金融研究所貨幣博物館展示資料
園部利彦
最新記事 by 園部利彦 (全て見る)
- 銅(Cu)・金(Au)-秤と錘と分銅の歴史 - 2026年7月27日
- 炭素(C)-地球温暖化研究と脱炭素社会 - 2026年6月22日
- 炭素(C)-温室効果の発見と二酸化炭素 - 2026年6月2日