| 亜炭(lignite)は石炭の中で最も石炭化度が低く(炭素含有量は60~70%),石炭の分類上は褐炭(brown coal)に含まれます。国内の亜炭産地はかつては東北地方と東海地方に多く,明治期から戦後にかけて主に燃料として用いられました。今回は亜炭を取り上げ,歴史と共にご紹介します。 |
石炭の生成と亜炭
石炭は,太古の大森林が地下深くに閉じ込められ,温度と圧力の作用を受けてできたと考えられています。石炭は石炭化度が低い方から順に褐炭・瀝青炭・無煙炭と分類され,地質年代が古いほど石炭化度は大きくなります。具体的には,新生代第三紀(650万~170万年前)は褐炭が主体,中生代(2.4~0.64億年前)は瀝青炭が主体,古生代(5.8~2.5億年前)は無煙炭が主体です。褐炭の埋蔵量は世界全体で6000億㌧以上とされ,より高品位の石炭をしのぐ規模です。(⇒「石炭と産業近代化の曙」はココをクリック)
亜炭は水分・灰分を多く含み,新しい地質年代のものが多いことから,地中の比較的浅い所で地熱・地圧の影響をあまり受けずに生成したと考えられています。褐炭には褐色を呈するものが多いのに対して,亜炭は褐色ないしは暗灰色です。亜炭は,続成作用(堆積物の成分が圧密し,固結すること)を強く受けていないため,木材組織を含むこともあり,木材組織が残っている木質亜炭とほとんど消失している泥質亜炭に大別されます。
日本産業規格(JIS,M1002)によれば褐炭の発熱量は24280~30560kJ/㎏ですが,亜炭の発熱量は小さく,製鉄などの工業用途には向きません。また,着火性も良くなく,燃焼時に煤煙や独特の臭気を出すため,歴史的には燃料事情が好転すると使用量は減りました。
日本では,江戸時代末期頃から,野焼きなどの際に地面が燃え始めて発見されるなどして亜炭が採掘されるようになり,亜炭鉱業が興りました。その後,明治期から20世紀半ばにかけて全国的に採掘され,昭和30年代までは家庭用風呂釜や暖房機の燃料の主役でした。特に戦中と終戦直後には燃料事情が悪化したため,市街地でも採掘されたことがありました。亜炭の産出量は,1966(昭和41)年の統計で,多い順に山形県(17万㌧),宮城県(9.5万㌧),岐阜県(8.9万㌧)でした。山形県では,最上地方(新庄市周辺),村山地方(西村山郡左沢町周辺),置賜地方(米沢市周辺)など,県内に広く亜炭田が分布していました。
仙台の亜炭と埋れ木細工
宮城県でも亜炭を多く産しました。そのうち仙台亜炭は,仙台市とその周辺で採掘され,幕末期以降,広瀬川中流の「向山層」には小規模な亜炭鉱山が散在していました。宮城県の三本木亜炭記念館(大崎市三本木大豆坂)には日本最大とされる亜炭塊が展示されています。

亜炭(三本木亜炭記念館)
出典:Mukasoraによる”Sanbongi Brown Coal Memorial Hall, 10 ton brown coal, in 2010-03-06”(WIKIMEDIA COMMONSより)
広瀬川の断崖,青葉山,八木山に広がる向山層は,大部分が火山噴出物で,下部の亜炭層は400万~500万年前の噴火でセコイヤやメタセコイヤが火砕流によって被われてでき,上部の亜炭層は約300万年前にできたと考えられています。亜炭は第三紀のうちの鮮新世(500万~170万年前)に形成された仙台層群に含まれ,ケヤキ(欅)・マツ(松)・スギ(杉)・カツラ(桂)などの樹木を埋れ木(半ば炭化した木)として含むものもあります。
仙台市では,広瀬川沿いの青葉山,越路山(八木山),向山などのほかに,旧・宮城郡広瀬村などでも亜炭の採掘が行われました。かつての仙台市内では,夕方になると煙突から煤煙が立ち上り,特有の臭気が街中に漂ったといいます。しかし,1962(昭和37)年に原油輸入が自由化されて石油燃料が普及すると,採掘も使用も急速に衰退しました。
採掘された亜炭のうち彫塑が可能な木質亜炭は埋れ木細工として加工されました。仙台埋れ木細工は宮城県を代表する工芸品で,1982(昭和57)年に宮城県知事指定伝統的工芸品になりました。
1822(文政5)年,仙台藩の足軽,山下周吉は青葉山の背後の沢で埋れ木を発見し,持ち帰って掻敷を作りました。掻敷(苴,掻敷,皆敷とも)とは食物を盛る器で,古代に木の葉などに食物を盛った名残とも考えられ,室町期から料理で使われるようになったとされます。山下ら約20軒の武士は埋れ木細工を内職にし,亜炭の採掘許可を願い出ましたが,産出地が仙台城の南面という要衝の地でもあったため許可されませんでした。しかし仙台藩は採掘を黙認し,足軽の石垣勇吉らによって製品の質が洗練されて幕末から明治・大正期にかけて名産品となりました。
名取川の埋れ木は流木などが川底に埋まってできた古材で,青葉山の埋れ木が「山埋れ木」と呼ばれるのに対して,名取川のそれは「川埋れ木」と呼ばれます。
埋れ木は長く地中にあって姿を現したものであることから,昔の人々にとっても珍しいものでした。また,「埋れ木に花が咲く」と言えば,長い間逆境にあった人に思いがけない幸運が訪れる,という意味でもあります。
名取川の埋れ木は和歌にも詠まれました。後嵯峨上皇の院宣により1251(建長3)年に藤原為家が撰進した『続後撰和歌集』には次の歌があります。
残雪の心を 土御門院御製
埋れ木の春のいろとやのこるらん 朝日がくれの谷の白雪
建保二年内裏詩歌を合せられけるに、河上花 前中納言定家
名取川春の日数は現れて 花にぞしづむ瀬々のむもれ木
一つ目の歌では,朝日にも照らされない谷間の残雪を「地中に長く埋もれて炭化した木のように,春の情趣として残っているのか」と詠っています。二つ目の歌は,次の歌(古今和歌集,読み人知らず)を本歌としていて,
名取川瀬々の埋れ木現れば いかにせむとかあひ見初めけん
「名取川が春めく頃,瀬の埋れ木は川面に浮かぶ落花に隠れて再び見えなくなる」と詠っています。
名取川の埋れ木を燃やしてできた赤茶色の灰は良質の香炉灰として使われ,材は硯箱や文台に加工されて,いずれも文人たちに珍重されました。江戸時代になると,香道に造詣が深かった藩祖伊達政宗が名取川下流の名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸)に対して,年貢諸役を免除する代わりとして埋れ木の採掘や香炉灰の製造を命じ,それらは藩の名産品として幕府,諸大名,公家たちに献上されました。
亜炭の町と呼ばれた御嵩
岐阜県の美濃加茂市,可児市の周辺に分布する第三紀層は「瑞浪層群」と呼ばれ,古い順に蜂屋層・中村層・平牧層で構成されていて,中村層は美濃加茂市南部,可児市,可児郡御嵩町にかけて分布しています。その厚さは約120mで,礫岩や凝灰質砂岩などから成る下部層と褐炭層を含む上部層から成ります。
御嵩は江戸時代には中山道の宿場町でした。御嵩では,1869(明治2)年,中村(現・御嵩町中)の亀谷吉兵衛と金子光助が旅の帰途に大阪港で見た燃える黒い石を珍しく思い,持ち帰りましたが,それと似た物が地元にもあることを知りました。その後採掘を始め,日清・日露・第一次大戦の影響を受けて増加した製糸場のボイラー用燃料,軍事用石炭の代用品として需要が高まりました。
東海地方の木曽川周辺での亜炭の産出は規模が大きく,一時期には日本国内の約40%を産出しました。この地方では陶磁器の生産が盛んで,焼成窯の燃料としての需要が大きいことも特徴でした。御嵩町の亜炭産出量は最盛期には全国の4分の1以上を占め,〝亜炭の町〟と呼ばれて栄えました。次の写真は,岐阜県瑞浪市で亜炭業を興し,全国亜炭産業会の会長にもなった渡辺徳助の頌徳碑です。

渡辺徳助翁頌徳碑
(岐阜県瑞浪市日吉町南垣外,令和2年11月・撮影)
亜炭を含む地層は軟らかく,地下の浅い所にあったので採掘が容易でした。しかし採掘の規模は一般に小さく,家族経営で農閑期にだけ生産する半農半鉱も多くありました。坑道の多くは貧弱な支保(坑道の崩壊防止のために仮設される木材や鉄材)による手掘りで,狸掘りに近い状況でした。狸掘りとは,無秩序に採掘する小規模な採掘法で,その英語(gophering,coyoting)は不規則な採掘がホリネズミ(掘鼠)科のゴファーやイヌ(犬)科のコヨーテによる巣穴の掘り進め方に似ていることによるとされます。
亜炭の採掘は柱を残しながらの掘削(残柱式)が一般的で,深さ30mに及ぶこともあり,採掘後は坑道の体積の約7割が空洞のまま放置された所もあります。亜炭の採掘がかつて盛んであった場所では,網の目のように採掘された坑道が地中に広範囲に残り,地盤沈下や陥没の原因になっています。
長久手の亜炭と出水事故
名古屋市守山区を含む名古屋東部丘陵地は,瀬戸陶土層,砂・礫・粘土のシルト層,河川氾濫原の堆積物で形成された矢田川累層から成ります。亜炭層はその中に点在し,春日井市(出川町,高蔵寺町),守山区(志段味),尾張旭市,長久手市に南北に延びています。
長久手市の喜婦嶽は同市の旧字域で,羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った1584(天正12)年の小牧・長久手の戦のうち,長久手の戦は同年4月に現在の日進市,尾張旭市,長久手市を舞台に繰り広げられました。喜婦嶽の付近はかつては分水嶺で,森長可の軍勢が陣取り,ここから北方の徳川軍に向けて進撃したことでも知られています。なお,「きぶい」とは「厳しい,激しい,きつい」という意味で「険しい」の意味にも通じ,この辺りに傾斜の急な山があったことを表しています。現在では周辺は平坦で,住宅地が広がっています。
喜婦嶽では地下約60mの所に亜炭層があり,付近を坑口として採掘が行われました。地中の坑道を掘り進む作業には常に危険が伴います。
長久手市の杁ケ池公園から長久手市立南小学校(長久手市喜婦嶽)に向けて歩くと,南小学校バス停(N-バス)の付近に地蔵尊と阿弥陀尊が並び立つ公園があります。ここは1932(昭和7)年に起きた坑内出水事故を記録し伝えています。地蔵尊の基壇には「為喜婦嶽炭坑遭難者菩提」と刻された石板が付けられ,その脇に地蔵尊の由来を刻した石碑があります。犠牲者のご冥福をお祈りし,石碑の全文をご紹介します。
「喜婦嶽地蔵尊の由来
昭和七年五月五日午後三時頃 喜婦嶽炭坑坑内出水大事故に依り 坑内作業員の約半数 採炭夫十三名は出坑出来ず 坑内に閉じ込められた為 直ちに地元消防 警察 日本赤十字等各方面の方々に依る必死の救援活動 排水も空しく 七、八日は過ぎ 一人の遺体も見る事が出来ず 救援活動は打ち切られ 遺体は地下七十米の地底に 永久に眠る事となった
事故発生以来 各方面の絶大なる御支援 御同情の見舞金等を賜り 中でも本村出身の名古屋市在住郷友会の方々から地蔵尊 春日井市勝川の満勝寺から阿弥陀佛の寄進を賜りましたので 当時の村長大島録三郎が先頭となり 大字長湫区所有の山林 字喜婦嶽八十一番地十六地内に建立 同八月除幕され 以来遭難者の遺族一同は 両尊を遭難者の御霊として崇拝供養し続け 五十回忌に到る 合掌
昭和五十六年五月五日建之 主記 山田兼広」

長久手市喜婦嶽の地蔵尊
(令和7年9月・撮影)
参考文献
「明日をひらいた美濃の人びと⑫ 亜炭王の渡辺徳助」岐阜新聞(1999年5月16日付け朝刊)
「御嵩の亜炭鉱」ひろたみお著(リヨン社,2002年)
「図録御嵩の文化遺産」御嵩町文化財保護審議会編(2003年)
「埋もれ木に花が咲く 名取川埋木と仙台埋木細工」松浦丹次郎著(土龍舎,2016年)
「和歌文学大系37 続後撰和歌集」佐藤恒雄著(明治書院,2017年)
長久手市郷土史研究会のホームページ(https://nagakutekyoudoshi.hatenablog.com)
園部利彦
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