炭素(C)~石炭と産業近代化の曙

炭素の単体には、古代から知られていたグラファイト(石墨)、ダイヤモンド、無定形炭素と共に、1985年に発見されたフラーレンC60があります。ここでは、石炭を我が国の産業近代化と関連付けて取り上げます。

石炭の種類と用途

石炭を種類別に炭素分(括弧内)の大きい方から順に列挙すると次のとおりです。多くは古生代後半、特に石炭紀の地層を中心に産出し、日本では第三紀のものが主です。石炭は過去の植物が分解・炭化してできますので、一般に古い地層の石炭ほど石炭化度は高いです。

無煙炭(90%以上)   瀝青れきせい炭(78~90%)
褐炭(70~78%)    亜炭(70%以下)
泥炭(60%程度)

日本国内では北海道、常磐、山口・北部九州の各地に炭田が集中しています。かつて石炭は、「燃える石」として珍しがられはしたものの、燃やすと異臭が激しく、幕末までは灯火や製塩の燃料などで限定的にしか使われませんでした。しかし、産業近代化の過程でエネルギー源の主役となり、化学工業の原料にもなりました。

戦後、エネルギー源が石油や天然ガスに転換し、今ではもう使われていないと思われがちですが、現在、石炭火力発電は、日本では電力の3割余、世界全体では4割余を担っています。また、石炭の無酸素状態での熱分解でできるコークスは、高炉製鉄には不可欠です。

「黒いダイヤ」と呼ばれる石炭
左:瀝青炭(福岡県・筑豊産)  右:無煙炭(熊本県・天草産)

開拓者たちが挑んだ北の大地

地質調査が本格的に行われるようになったのは、産業革命が一段落した1830年代からです。例えばイギリスやアメリカでは、この時期に地質調査所が設置され、地質研究が進展しました。そして産業の発展につれて鉄や石炭などの地下資源の開発が重視され始めました。

蝦夷地について江戸幕府は、北辺防備と共に、そこに眠る地下資源の開発の観点から関心をもちました。幕末の1855(安政2)年には『蝦夷地開拓触書』を公布して金、銀、銅、鉛、鉄、石炭などの開発を奨励し、探査に着手しました。続く明治政府も開拓を重視し、1869(明治2)年7月に民部省に開拓使が置かれ、入植者の募集が始まりました。

開拓判官であった探検家の松浦武四郎は、1869年に蝦夷地の名称に関して「北加伊道」を含む六つの候補名を政府に示しました。今年はそれから150年目です。ここからは、北の大地で資源の開拓に挑んだアメリカの地質学者B.ライマンとその門下生の一人、ばん市太郎の事績を訪ねます。

ライマンはマサチューセッツ州の法律一家に生まれました。大学卒業後は中学校教諭になりましたが、学生時代から博物学に興味があった彼は各地の地質調査に加わり、欧州に留学もしました。その後、1870年に英国政府の依嘱でインドの石油調査に従事し、次の調査地として日本を選んだのです。1872(明治5)年、ライマンは助手を伴って来日しました。

坂は美濃国大垣藩に生まれました。彼は武士の子として厳しく育てられ、藩の塾で学んだ後、芝の増上寺にあった開拓使仮学校に1872年に入学しました。そこでライマンと出会ったのです。仮学校でのライマンの教程は、5年分の専門科目を3年間で習得させるという厳しいものでしたが、坂は成績優秀で官費生になりました。

ライマンの北海道における地質調査は1873(明治6)年からの3年間に3回行われました。夏には学生を連れて実地調査を行い、冬季は講義と報告書の作成にあたりました。ライマンは、アカデミックなドイツの地質学よりも、実際的なアメリカの地質学に立脚し、いかにして地下資源を開発するかを優先しました。30代後半の若き教師は、学生たちを熱心に教育し、共に学び、何よりも彼らを愛しました。

坂もまた、机上の学習ばかりではなく早く実践に移したいという欲望に満ちていました。開拓使からライマンに道内の地質調査の命が下ると、坂は成績優秀者から選ばれた13人に入り、1873年3月に北海道に行きました。

ライマンが率いる探検隊は、雪解けを待ってアイヌの青年を案内役として出発しました。空知そらち上川かみかわ苫前とままえと、原始の姿の林に分け入り、熊におびえながらも歩を進めました。ある日、ライマンは第三紀層に石炭層を発見しました。それは南北につながっていると見られ、奈井江ないえ美唄びばい、砂川の辺りを調査し、三笠の幌内ぽろない炭田を発見しました。学生たちの士気は高まり、更なる大炭層があると確信したライマンは舟で夕張川を遡りました。

しかし途中で前進できなくなり、案内役にたしなめられるも、血気にはやる学生は前進の強行を望みました。ライマンは全員の安全な帰還を優先し、宝の山を目前に断念したのでした。ライマンは、「やむなく引き返すが、一大炭田は必ずこの上流にある。機会を見てぜひ詳しく調査するように」と学生たちにさとしました。

舟にうずくまって水面を凝視するライマンを見た坂は、一番悔しいのは先生自身であることを悟りました。そして先生が実現できなかった発見をいつか必ず成し遂げるのだと決意を固めたのです。

ライマンと門下生たち

1881(明治14)年にライマンが離日した後、助手たちは各地に散って、師の願い通り国や開拓使などで地下資源の開発に成果を挙げました。坂は、10余年を経て北海道庁の技師として戻りました。

道庁では夕張に何度も探査隊を出しましたが全て失敗。夕張川上流に到達した者さえいませんでした。1888(明治21)年、許可を得た坂は隊を組織し、ライマンとの前回の探検の失敗から、川ではなく陸地を進むことにし、既に開鉱していた幌内炭鉱から南に向けて出発しました。

一週間が過ぎた頃、坂は、志幌加別川しほろかべつ沿いで瀝青炭の厚さ7mの大露頭を発見したのです。その報せは全国に轟き、2年後には採炭が始められました。夕張には,以降次々と炭鉱が開かれました。坂は40歳で道庁を退職し、その後は,かつて探検した歌志内うたしない赤平あかびらなどの炭鉱開発を個人で行い、実業家として炭鉱開発の盟主となりました。

夕張の石炭大露頭 (夕張市石炭博物館,平成26年7月撮影)

帰国後のライマンは終生を独身で通しました。ライマンのもとには多くの日本人留学生が頼って来たといいます。庶民さえ東洋人全般を見下す中、偏見に抗してアメリカで勉学に励む留学生に対して、ライマンは日本と日本人を愛する心で彼らに接しました。

恩師が病床に就いたことを知った帰国後の弟子たちは、恩師が滞日中に使った東京の家を譲り受けて売却し、できたお金を送りました。ライマンは師弟たちの愛に恵まれて84歳で天寿を全うしました。日本の地質学の基礎がライマンにあることを忘れてはなりません。

 

参考文献:
「住友赤平開坑三十年」住友赤平開坑三十年史編纂委員会編(住友石炭鉱業㈱赤平砿業所,1968年)
「地質調査事業の先覚者たち(4)炭田・油田開発の貢献者ライマン」今井 功,地質ニュース・111号(地質調査所,1963年)
「ライマン雑記(1)~(23)」副見恭子,地質ニュース・427~668号(地質調査所,1990~2010年)
「そらち炭鉱遺産散歩」北海道新聞空知「炭鉱」取材班編著(共同文化社,2003年)
「覆刻 札幌農學校」札幌農學校學蓺會編纂(北海道大学図書刊行会,2005年)
「元素大百科事典」渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)
「第八集ほっかいどう百年物語」STVラジオ編(中西出版,2008年)
「北海道炭鉱遺産」KEN五島著(アスペクト,2010年)

画像:
ベンジャミン・スミス・ライマン(J T White Companyによる”Benjamin Smith Lyman” ライセンスはパブリックドメイン)

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園部利彦

園部利彦

2017年3月まで岐阜県立高等学校で化学を教え退職。化学(科学)の歴史と科学者に興味があり、趣味は鉱山の旅とフランス語。