白金(Pt)-誤解されてきた貴金属

白金は古くから知られていた金属ですが,元素として認識されたのは18世紀になってからでした。現在では,白金は宝飾品のほかに化学反応の触媒などに利用されています。

銀に間違われ,金に似せられ…

白金は,古代エジプトのファラオの装身具などにわずかながら使われ,南米でも10世紀頃に装身具に使われていました。古い時代には,木炭の炎に金属管(吹管すいかん)で口から空気を吹き込んでできる強い炎を,白金の小粒と少量の金粉を混ぜたものに当てて局部的に強熱して加工されたようです。それでも白金の融点(1772℃)には達しませんが,融けた金が流れて白金粒がハンダ付けされたようになったり,共融合金の薄層ができたりしたと考えられています。

新大陸・新航路が発見されると,スペイン,ポルトガル両国は中南米のかつてインカ帝国が栄華を誇った地で覇権を争うようになり,土地や島の帰属をめぐって紛争が続発しました。これを受けてローマ法王アレクサンデル6世は裁定のために教書を出し,新発見の地に関するスペインの権利を認めた上で,両国の領有の分界線をヴェルデ岬諸島(アフリカ大陸最西端,セネガル領内)の西方約550㎞の子午線とし,それより西側をスペイン,東側をポルトガルが領有することとしました。
中南米のスペイン領はパナマ地峡を境にして南北に分けられ,それぞれに総督府が置かれました。このうちパナマ以南の支配地には1718年にニューグラナダ総督府が置かれ,鉱物資源の開発が進められました。

砂白金は砂金に伴って産出することが多く,地元ではOro blanco(白い金),Platina del Pinto(ピント川の小さな銀)となどと呼ばれていました。それは見た目は銀のようでありながら,扱ってみると金より重く,脆くて粘り気が少ないので,銀でないことはすぐに判りました。元素名Platinumの語源となったPlatinaの語は,スペイン語の銀(plata)に由来し,この地方の古文書に1707年に現れています。それには,砂粒状で小さい意味に加えて,未熟な金属の意味も込められているようです。

当時は,銀と間違われて採取されても,融点が高いため銀のようには加工できませんでした。人々は,採取した砂金から白い金を手で選り分けるのに苦労し,白い金は金になる前の未熟な金属だとして厄介物扱いしました。金が採れなくなった鉱山は放棄され,砂白金は,時が経てば熟成して黄金色になるとして,埋め戻されたり川に捨てられたりしました。
それでもいくらかの量の白金は流通し,密輸品として主に英領ジャマイカへ持ち出されました。さらには金の混ぜ物に使われ,金への混合は禁令が出されたにもかかわらず長年続きましたし,監視を逃れて作った貨幣や延べ棒が表面を金でメッキされて堂々と金製品として取り引きされました。

 

近代化学による解明から白金族元素の発見へ

スペイン海軍のA.ウロアは南米に産する白金を欧州に紹介した人です。彼はフランス科学アカデミーによる子午線長測量隊の一員として1735年にペルーに渡り,1744年まで南米に滞在しました。この遠征は,フランス王ルイ15世がスペイン王フェリペ5世に隊の渡航を願い出て実現したもので,19歳のウロアは科学の素養をもつ将校として隊員に選ばれたのです。

測量隊は任務を終えましたが,彼らの船が回航中に英国軍艦に拿捕だほされ,乗員は拘束されてロンドンに護送されてしまいました。ウロアは所有する書類を没収されましたが,白金のことに関心をもった英国王立協会のW.ワトソンと知り合いになりました。ロンドンでウロアはワトソンや王立協会の会長と友好を深め,1746年には王立協会の会員に選ばれました。
没収されていた書類を返還され,スペインへの帰国も許されたウロアは,帰国後の1748年に紀行『国王陛下の命によりなされた南米旅行の歴史的報告書』を著し,ワトソンはその中の白金に関する記述を訳して1750年に英国で発表しました。ウロアは同書の中で白金について,“非常に抵抗力のある石なので,壊したり,金床の打撃で崩したりするのは容易でなく,ゆえに捨てられている”(第六の書・第十章)と記しています。

 

 

 

 

 

 

 

ウロアの肖像画
出典:” Pendant portrait of Antonio de Ulloa y de la Torre, 37.5 x 31.5 inches, Oil on canvas”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

イギリスの鉄鋼業者C.ウッドはジャマイカ政府から分析を依頼され,密輸業者から購入してジャマイカで研究し,帰国後にも開業医のW.ブラウンリッグと共に更に調べました。彼らの研究が契機となってドイツ,フランス,スウェーデンへと研究の輪が広がり,白金は元素として確認され,種々の性質が報告されると共に,一連の白金族元素の発見へとつながりました。以下にそれらの発見者と元素名の由来を列挙しておきます。

1803年: ロジウム(45Rh)/W.ウラストン(英)
…塩の水溶液が薔薇バラ色であることからギリシア語の「バラ」
1803年: パラジウム(46Pd)/W.ウラストン(英)
…前年に発見された小惑星パラス (Pallas)
1803年: オスミウム(76Os)/S.テナント(英)
…酸化オスミウム(Ⅷ)の刺激臭からギリシア語の「におい」
1803年: イリジウム(77Ir)/S.テナント(英) ⇒ココをクリック
…化合物が多彩な色をもつことから,ギリシア神話の虹の女神イーリス
1844年: ルテニウム(44Ru)/K.クラウス(露)
…ロシア西部の地名の古称(命名はG.オサン(独)による)

白金の性質が明らかになると,貴金属として評価されるようになり,例えばスペインの国王カルロス3世はローマ法王ピオ6世に白金製の聖杯を贈りました。スペインの繁栄はナポレオンの侵攻で衰えましたが,白金の用途は加工技術と共にこれ以後も進展しました。
現在,白金の代表的な資源鉱物は,元素鉱物である自然白金のほかに,スペリー鉱(Sperrylite,成分はPtAs)やクーパー鉱(Cooperite,成分はPtS)です。このうちスペリー鉱は,1889年にアメリカの化学者F.スペリーによってカナダで発見されました。

 

 

 

 

 

 

スペリー鉱(カナダ産)
出典:Robert M. Lavinskyによる”Sperrylite”ライセンスはCC-BY-SA-3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

 

プラチナムというアラスカ州の町

米アラスカ州の南部,ベーリング海沿岸のグッドニューズ湾に,その名もずばりプラチナム(Platinum)という町があります。
1926年,砂金を掘っていたエスキモーがここで白金の鉱石を発見し,浅い海の底から人力で小規模な採掘が行われました。初めは丸太小屋一軒しかなく,人口は数十人程度でしたが,その後鉱山関連会社ができました。厳寒の地ゆえに,採掘は5月からの半年間に限られ,毎年,採掘を始める前に分厚い海氷を割り,採掘は海底から泥土を浚渫しゅんせつする方法で行われました。

 

 

 

 

 

 

アラスカ州グッドニューズ湾産の白金
(大きさ:1.1×0.8×0.5㎝,重さ:3.2g)
出典:Robert M. Lavinskyによる”Platinum”ライセンスはCC-BY-SA-3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

この町に郵便局ができるときに町の名前を正式に決める必要が生じ,「プラチナム」としました。その後雑貨店などもでき,1930年代後半までにゴールド・ラッシュならぬプラチナ・ラッシュの様相を呈して新興都市となり,工場が増え繁華街もできました。太平洋戦争中には,白金の資源奪取をうかがう日本に対抗して戦略的防衛の地になりました。1975年には市になり,現在,採掘は行われていませんが,プラチナム空港があります。

 

参考文献■
「プラチナとその同族金属の歴史」D.マクドナルド,L.ハント著(田中貴金属工業,1983年)
「17・18世紀大旅行記叢書8 南米諸王国紀行」A.ウリョーア・J.フワン著,牛島信明・増田善郎訳(岩波書店,1991年)
「プラチナの魅力」渡部 行著(日刊工業新聞社,1985年)
「楽しい鉱物図鑑②」堀 秀道著(草思社,2003年)
「元素大百科事典」P.エングハグ著,渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)
「元素の名前辞典」江頭和宏著(九州大学出版会,2017年)

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園部利彦

園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。非常勤講師として2019年に名古屋工業大学「科学史」(工学部二部),2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」(全学部共通)を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。