鉛(Pb)-金沢城の瓦に使われた金属

金沢城は,浅野川とさい川にはさまれた小立野こだつの台地の北西端(旧・加賀国石川郡尾山おやま)にあります。かつてこの地には金沢御堂みどう(加州御坊ごぼう,尾山御坊とも)があって加賀一向一揆の拠点となりましたが,織田信長の家来で「鬼玄蕃げんば」の異名をとった佐久間盛政が攻め落とし,1580(天正8)年,御堂時代の建物を元に城が築かれたのです。
前田利家は,本能寺の変(1582(天正10)年)の後に窮地に陥った織田がたの北陸諸大名が柴田勝家の下に結集したとき,佐久間盛政と共に行動しました。しかし,柴田勝家が羽柴秀吉と交戦すると秀吉側に付き(賤ケ岳しずがたけの戦,1583(天正11)年),柴田氏の滅亡後に石川郡と河北郡を加増されて金沢城の城主となりました。

かわらの起源と歴史

いらかは屋根のむね瓦あるいは瓦葺きの屋根のことで,「甍を競う」とは家がたくさん建ち並ぶ様子です。屋根葺きの材料には,草(かやわら),樹皮(檜皮ひわだや杉皮),木材板(こけら板,とち板,木賊とくさ板),金属板(銅,鋼,トタン)などと共に焼き物の瓦があります。
焼き物の瓦の発明は今から約3000年前とされ,中国では周代のBC900~800年頃に既に使われていたようです。日本には6世紀後半に朝鮮半島から伝えられました。

瓦には,軒先を飾る軒丸のきまる瓦・軒平のきひら瓦,軒先から棟へと続く丸瓦・平瓦のほかに,道具瓦と呼ばれる鬼瓦(下図の❶)・鳥衾とりぶすま(❷,鬼瓦の上に反って突き出した円筒状の瓦ですずめ瓦とも)・雁振がんぶり瓦(❸,棟の最上部に載せる半円形の瓦で衾瓦・冠瓦とも)・熨斗のし瓦(雁振瓦の下に積む平たい瓦)・鴟尾しび大棟おおむねの両端に置く飾りの瓦)など,そして後述するさん瓦があります。

 

 

❶は鬼瓦
❷は鳥衾
❸は雁振瓦(この下に熨斗瓦があります)

金沢城公園にて(石川門)
(令和4年1月撮影,越川司朗氏より提供された写真に加筆)

『日本書紀』の巻第二十一・崇峻すしゅん天皇の法興ほうこう寺創建のくだりには,百済くだら国から「瓦博士麻奈文奴まなふぬ陽貴文やうくゐもん陵貴文りょうくゐもん昔麻帝弥しゃくまたいみ」らが遣わされたことが記されています。蘇我馬子宿禰すくねは百済の僧侶らを招いて仏の定めた戒律を受け,「飛鳥衣縫造あすかのきぬぬいのみやつこおや 樹葉このはの家をこほちて、始めて法興寺を作り」ました。「瓦博士」とは瓦の製作技術者のことで,法興寺が寺院建築に秀でた渡来人大工らによって建てられたことが分かります。
法興寺は本格的な伽藍がらんを有する我が国最初の仏教寺院とされ,遷都に伴って平城京にできた寺を元興がんごう寺(現・奈良市芝新屋町)と号してからは,もと元興寺と呼ばれるようになりました。法興寺の瓦は,元興寺に使われ,現存する日本最古の瓦とされます。

鎌倉時代になると,仏教の隆昌で寺院の建立・修造が増ました。また,瓦は大振りになり,例えば東大寺の復興の際に作られた瓦の大きさは,軒丸瓦の直径が20㎝,軒平瓦の幅が33㎝でした。

 

 

 

 

奈良・東大寺大仏殿の屋根に輝く一対の鴟尾
出典:Roman SUZUKIによる”東大寺大仏殿”ライセンスはCC BY 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

その後も,屋根を瓦で葺いた建物は寺院や城郭であって,庶民の家に瓦が使われることはほとんどありませんでした。丸瓦と平瓦が交互に配置される本瓦葺きでは,瓦の重量が大きく,建物の躯体が丈夫でないと支えられなかったのです。

江戸時代に入り,1674(延宝2)年,近江国大津の瓦工の西村五郎兵衛尉正輝(後に改名し半兵衛)が,三井みい寺万徳院(滋賀県大津市園城寺おんじょうじ町)の玄関を初めてさん瓦で葺きました。彼は,丸瓦と平瓦を合体させた形の瓦を考案し,それで屋根を葺く工法(桟瓦葺き)を創案したのです。桟瓦の断面は緩やかなS字型で,薄くて軽く,隣の瓦と連続して重ね合わせて施工されるため丸瓦が要らないことなどから,製造や施工が容易になり,一般の家にも普及が進みました。桟瓦は,彼が江戸で「火除ひよけ瓦」を見て発明したとされ,初期には〝江戸瓦〟と呼ばれていたようです。

 

金沢城と鉛瓦で葺かれた屋根

現在の石川門は宝暦大火の後の1788(天明8)年,本丸の付段三十間長屋は1858(安政5)年に再建されたものです。石川門・河北門・橋爪門は〝三御門〟と呼ばれて格式が高いとされ,門内には足軽番所が置かれていました。
石川門は,三ノ丸の搦手からめて門(裏門)で,石川郡の方角に向いて開くのでその名が付きました。石川門は,兼六園と向かい合い,美しい海鼠なまこ壁が特徴的で,鉛瓦が白く輝くことから白門とも呼ばれます。

 

金沢城公園への入口,石川門          残雪の橋爪門
(共に令和4年1月撮影,越川司朗氏より提供)

 石川門の屋根は,1953(昭和28)年から1959(昭和34)年にかけて行われた解体修理の際に再鋳造された鉛瓦で葺かれています。鉛瓦葺きでは,先ず木材を瓦の形に造り,その上に鉛板(大きさ約45×20㎝,厚さ4.5~7.6㎜)を打ち付けた後,銅くぎで固定します。成分は96~99%の鉛で,0.3~0.8%の銅,0.1~0.2%の鉄なども検出されます。銅を添加することによって強度・硬さ,耐酸性が高まります。
鉛瓦は,初めは灰黒色ですが,二酸化炭素及び雨水との反応で表面に塩基性炭酸鉛(2PbCO・Pb(OH),鉛白)が生じ,薄く雪化粧したように優美になります。軒下で雨水の当たりにくい所には,灰黒色がかった部分が見られます。

金沢城の屋根が鉛瓦で葺かれた時期は,第三代藩主前田利常の頃と考えられています。鉛瓦の使用については,美観,凍害防止,銃弾に対する防御と銃弾資材の備蓄,金・銀の加工,貨幣鋳造の余剰分の転用などの理由が考えられますが,1665(寛文5)年に徳川幕府が金銀売買を禁じたことや,1667(寛文7)年に諸藩の貨幣鋳造を禁じたことなどから鉛が使えなくなり,余剰分が転用された可能性が高いようです。加賀藩時代には,藩内にあった長棟ながと鉱山・亀谷かめがい鉱山(富山市)や松倉鉱山(富山県魚津市松倉)から貨幣鋳造用に多くの鉛が納められていました。

 

 

 

石川門ののき
梅鉢うめばち紋(前田家の家紋)が施された軒丸瓦と軒平瓦
(令和4年1月撮影,越川司朗氏より提供)

江戸城の本丸天守も鉛瓦葺きであったことが仮名草子『慶長見聞けんもん集』(全10巻,三浦見聞集とも)から分かります。『慶長見聞集』は,相模国三浦の出身の仮名草子著者,三浦五郎左衛門茂正しげまさ浄心じょうしん)によって著されました。1614(慶長19)年の成立とされますが,寛永期(1624~1645年)の内容も含まれることから,後の作とも考えられています。その記述からは江戸初期の世相や出来事を知ることができます。
巻の一〈江戸町瓦ぶきの事〉には,「しかれば家康公きょうさせらるゝ江城こうじょう殿守てんしゅは五重、鉛瓦にて葺き給ふ。富士山に並び、雪の嶺にそびえ、夏も雪かと見えて面白し。今は江戸町さかえ皆瓦葺となる」とあります。
江戸城の本丸天守は,1607(慶長12)年に築造された後,1622(元和8)年に修築,1637(寛永14)年に大修築されており,しゃちほこ破風はふの飾り板を金の延板で飾った荘厳なものでした。しかし,寛永の天守は1657(明暦3)年の大火(振り袖火事)によって焼失しました。現在も残る御影石の天守台は第四代藩主前田綱紀つなのりの時代の石垣普請によって築かれましたが,その後に天守が築かれることはありませんでした。

江戸時代に屋根を鉛瓦で葺いたのは加賀藩だけで,金沢城関連の建物のほかには,前田利常が第二代藩主前田利長の菩提寺として建てた高岡山瑞龍寺(富山県高岡市関本町)の仏殿がありました。高岡古城公園にある高岡市立博物館には瑞龍寺仏殿の鉛瓦(軒丸瓦)が収蔵されています。仏殿は1659(万治2)年に竣工しましたが,当初の屋根は柿板葺きでした。次いで瓦で葺かれ,1744(延享元)年から1796(寛政8)年の間に鉛瓦に葺き替えられたと考えられています。

 

鉛瓦と金沢城のその後

明治維新以降,金沢城は歴史の中で翻弄されました。1869(明治2)年の版籍奉還で藩名は金沢藩となり,藩庁は藩の年寄だった長成連ちょうなりつらの屋敷へと移り,藩知事となった最後(第十四代)藩主の前田慶寧よしやすは城を出て本多氏邸に移りました。城には藩兵の屯所とんしょ(詰所)が置かれました。
1872(明治5)年になると陸軍省の管轄になり,翌年には名古屋鎮台の所属となって金沢営所が置かれました。1873(明治7)年には,太政官だじょうかんから陸軍と大蔵省に「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等選定方」(廃城令)が通達され,加賀国では,金沢城は陸軍が軍用財産とする存城処分,大聖寺だいしょうじ城(加賀市大聖寺錦町)は廃城処分となりました。これを受けて1875(明治8)年,二ノ丸に歩兵第七連隊が置かれました。
ところが,1881(明治14)年1月10日早朝,金沢営所から出火し,かつては藩主の住居であり政庁であった二ノ丸御殿が全焼しました。火災原因は失火でしたが,詳細は不明とされています。このとき,鉛瓦は融けて屋根から滝の如く流下したといいます。

太平洋戦争後は,金沢大学のキャンパスとなり,同大学の旧・丸の内キャンパスは城内にあることで世界的に珍しい存在でした。しかし,文化財であるため建物の増設が制限されることなどから,大学は金沢市角間町かくままちに移転しました。その後,石川県は国から城址を取得して,金沢城公園として整備しました。1995(平成7)年からは復元工事が本格化し,2001(平成13)年には二ノ丸の菱やぐら・五十間長屋・続櫓と橋爪門が,文化の火災後の再建時(1809(文化6)年)の姿に復元されました。これらの建物の屋根は全て鉛瓦葺きです。

 

参考文献
「慶長見聞集」,三浦浄心(茂正)著,芳賀矢一校訂(富山房,1906年),国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp
「ポピュラー・サイエンス 科学風土記 加賀・能登のサイエンス」石川化学教育研究会編(裳華房,1997年)
「ものと人間の文化史 100・瓦」森 郁夫著(法政大学出版局,2001年)
「新編日本古典文学全集3 日本書紀②」小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中 進・毛利正守校注・訳(小学館,2006年)
「よみがえる金沢城2-今に残る魅力をさぐる-」石川県金沢城研究調査所編(北國新聞社,2009年)
「よみがえる金沢城1-450年の歴史を歩む-」石川県教育委員会事務局文化財課・石川県金沢城研究調査室編(北國新聞社,2012年)
「鉛瓦小稿 -金沢城の鉛瓦-」小澤一弘・堀木真美子,愛知県埋蔵文化財センター研究紀要,第15号,1~12(2014)
金沢城公園のホームページ(http://www.pref.ishikawa.jp
高岡市立博物館のホームページ(https://www.e-tmm.info

The following two tabs change content below.

園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。