ラザホージウム(Rf)-〝原子核物理学の父〟の名をもつ元素

 ラザホージウム(Rf)は原子番号104の超アクチノイド元素です。今回は,E.ラザフォード(1871~1937)の人物像と合わせてご紹介します。

ラザホージウムの合成と命名

1964年,旧・ソ連のドゥブナにある合同原子核研究所で,プルトニウムの同位体242Puにネオンの同位体22Neのイオンビームを照射して104番元素(暫定的な元素記号はUnq)の同位体(質量数259)の生成を観測したと報告し,物理学者I.クルチャトフに因んでクルチャトビウム(kurchatovium,元素記号はKu)と名付けました。

242Pu+22Ne→259Unq+5n(nは中性子)

 1969年には,カリフォルニア大学バークレー校(UCB)のA.ギオルソらが,カリホルニウムの同位体249Cfと炭素の同位体12Cから104番元素の同位体(質量数257)を合成しました。

249Cf+12C→257Unq+4

 104番元素の合成はアクチノイド元素の領域からの脱出という成果でしたが,その名称についてアメリカは,放射能と原子核を研究したラザフォードに因むラザホージウム(rutherfordium)を当初から主張し,米ロの研究者の間で論争が続きました。そうした中で,国際純正・応用化学連合(IUPAC)は1994年と1995年にドブニウム(dubnium)を提案しましたが,1997年にはラザホージウムに変更し,元素の発見から30年余の長きを経てようやく正式に決まりました。

ラザホージウムには安定な核種は存在しませんが,化学的性質は周期表4族で同族の元素であるジルコニウム(40Zr),ハフニウム(72Hf)に類似であると考えられてきました。2017年,理化学研究所・仁科加速器研究センターにより261Rfの合成と実験が行われ,ジルコニウム,ハフニウムに似た化学的性質が確認されました。

 

ラザフォードの言葉-「これで芋掘りも最後だ!」

原子核物理学の父と称されるラザフォードの人生を彼の言葉でたどることにします。
ラザフォードは,英国の植民地であった時代のニュージーランドで,南島の港湾都市ネルソンの近郊に生まれました。両親は共に英国から移住し,開拓生活を送っていました。

ラザフォードは,1889年にクライストチャーチのカンタベリー・カレッジに進み,1894年まで学びました。職業を決めかねていた頃,万国博覧会記念奨学金の候補者がニュージーランドから推薦されることを知りました。この奨学金は,1851年にロンドンで開かれた第1回万国博覧会の収益を科学と芸術の振興に充てるために創設されたもので,オーストラリアとニュージーランドから交互に候補者を出すことになっていました。
ラザフォードはこれに応募しましたが次点候補になり,高校で物理を教えていました。ところが,選ばれた学生が辞退してラザフォードは繰り上げられたのです。それを知らせる電報が届いた時,ラザフォードは畑で農作業をしており,すきを放り投げて「これで芋掘りも最後だ!」と叫んだといいます。

 

「原子内に潜んでいるエネルギーは…」

ラザフォードは渡英し,1895年にキャヴェンディッシュ研究所でJ.トムソンの研究生となりました。そこで与えられた最初の仕事は,X線が気体に及ぼす作用について調べることでした。この時期はW.レントゲンによるX線発見の直後で,トムソンは,気体にX線を当てると電気伝導性を示す現象に注目したのです。ラザフォードの研究成果は1896年秋に発表され,X線によって電離した気体の種々の特性が示されました。

1897年にはフランスのA.ベクレルがウラン鉱物から出る放射線を発見しました。それを受けてラザフォードは,放射性物質からの放射線強度を測定し,1898年,透過力が異なる二つの放射線を発見しました。彼は,透過力の弱い方を「α線」,強い方を「β線」と名付けました。1900年にベクレルはβ線が陰極線と同じであることを確認し,フランスのP.ヴィラールは,透過力がβ線より更に強い「γ線」を発見しました。

ラザフォードは,トムソンからモントリオールのマギル大学の教授職を勧められ,1898年にカナダに移りました。この頃,ラザフォードはイギリスの化学者F.ソディに出会いました。二人は互いに論敵となり,良き共同研究者ともなりました。ラザフォードとソディの共同研究は1901年秋からの約2年半行われ,その間マギル大学は元素崩壊に関する研究の拠点となりました。
ふつうの化学反応の速さが温度の影響を受けるのに対して,放射壊変の速さが温度によらないことから,彼らは放射能は原子自体の現象であると考えました。1903年,ラザフォードとソディは,放射能が原子による現象であり,放射性元素は原子の崩壊により新しい元素を生じることを発表しました。その論文の終章には,原子エネルギーの大きさに言及して次のように記されています。-「原子内に潜んでいるエネルギーは,普通の化学変化で遊離されるエネルギーに比べて莫大であるに相違ないという結論に達する。
ラザフォードは,冗談めかして「実験室に馬鹿者がいて,うっかり世界を吹き飛ばしてしまうかも知れない」とも言いましたが,原水爆の悲劇を知った後の世界は,これを冗談とは思いません。

ラザフォードは,1904年に初の著書『放射能,Radioactivity』を出版し,同書は後に研究者の必読書となりました。1904年にはまた,アメリカの化学者B.ボルトウッドと協働して放射性元素の崩壊系列が鉛(Pb)で終わることを示しました。彼らはまた,放射性元素の崩壊速度を見積り,放射性元素による年代測定法は岩石,化石,先史時代の器物の年齢を知るための手段へと発展しました。

 

「物理学者が一瞬にして化学者に変わったことにも驚いた」

イギリスに戻ったラザフォードは,1907年にマンチェスター大学のA.シュスターの後任者となりました。
ラザフォードはα線の探究を続けていました。彼はドイツのH.ガイガーと共に,放射線源から生じた粒子を数えるための電離箱などを開発し,放射性物質から単位時間に放出される粒子の計数法を得ました。次いでα線によって運ばれる電気量を測定し,個々の粒子が2単位量の正電荷をもつとする結論に達しました。こうして,1908年,α線の正体がヘリウム(He)であることの証明がなされたのです。さらにラザフォードは,ガラス管にα粒子を捕え,集めた気体中で放電を起こしたときに生じるスペクトルを観測することでヘリウムであることを最終的に確定しました。

1908年にもたらされたノーベル化学賞の授賞理由は「元素の崩壊と放射性物質の化学に関する研究」でした。晩餐会のスピーチでラザフォードは,受賞の驚きと元素の崩壊を発見したことの驚きを,物理学者である自分が化学者の協力を得て研究を成し遂げ得たことと共に「元素が別の元素に変わることも驚異だが,物理学者が一瞬にして化学者に変わったことにも驚いた」と表現しました。

 

「15㌅砲を薄紙に向けて発射したら…」

ラザフォード以前の原子モデルには,原子全体が正電荷を散りばめた球体で,原子全体を電気的に中性にするだけの数の電子が埋め込まれているとするトムソンの陽球型モデル(プラム・プディングモデル,ぶどうパンモデルとも)と,中心部に正電荷が集まっているとする長岡半太郎の土星型モデルがありました。

 

陽球型モデル(左)と土星型モデル(右)
〔左〕出典:Fastfissionによる”Plum pudding atom”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)
〔右〕出典:Eurodixによる”Modelo Atômico Saturniano”ライセンスはCC BY-SA 4.0 DEED(WIKIMEDIA COMMONSより)

原子の内部に隙間があるという考え方は,1903年にP.レーナルトによって初めて示されました。レーナルトは,高速の電子が金属箔を通過することを見出し,物質の中身は空っぽに近い,と述べていますが,原子の本質は長らく確かめることができませんでした。
ガイガーは,金属箔を通過する際のα線の挙動を観察し,ごく一部の粒子は小さな角度で散乱されることを見出しました。このときの気持ちについてラザフォードは,後に故国のネルソンで行われた講演で「このことは私の生涯を通じて起こったことの中で,最も信じ難いことでした。15㌅砲を薄紙に向けて発射したら,弾丸が跳ね返って自分に命中したほどの驚きでした」と語っています。

ラザフォードは,原子の中心部には原子の大きさに比べて極めて小さい粒子があり,そこに原子の質量のほとんど全てが集中していると考えました。彼は,原子の直径(10-8㎝程度)に比して10万分の1の大きさ(10-13㎝程度)で原子全体の質量の大部分を占める荷電粒子としての原子核を想定し,様々な角度で散乱される粒子の数を計算しました。ラザフォードは,正電荷が土星モデルよりも更に小さく,中心の一点に凝縮していることを見出し,1911年に原子の有核構造を発表したのです。

N.ボーアは,原子のほとんどが空間であるとする考え方を受け入れた数少ない科学者の一人で,1912年,ラザフォードのもとで研究するためにマンチェスター大学にやって来ました。ボーアは,直感ともいうべき理解で原子核の姿を捉え,1913年,正に帯電した核が種々のエネルギー準位の電子に囲まれていると仮定して原子構造の量子論を提唱したのです。
次いで1913年,ラザフォードの共同研究者のH.モーズリーは,特性X線の研究に基づいて原子番号が原子核の正電荷の数で与えられることを明らかにしました。ここにラザフォードの有核原子模型の理論の正しさが立証されました。

1931年,ラザフォードはイギリス貴族院の男爵(1st Baron Rutherford of Nelson)に叙せられました。このときに与えられた紋章は,ニュージーランドを象徴する鳥のキーウィ(kiwi,奇異鳥)を冠し,錬金術の神とニュージーランドの先住民マオリ(Maori)が放射能のグラフ(トリウムとトリウムXの減衰と回復を示す曲線を意匠化したもの)を掲げる意匠で,「物質の要素を探せ」(Primordia quærere rerum)の文も刻まれています。

 
〔左〕男爵ラザフォードの紋章(
Source of photo:
https://teara.govt.nz/en/photograph/35640/coat-of-arms-of-ernest-lord-rutherford-of-nelson
〔右〕放射線の減衰を表す曲線
出典:KieranMaherによる”Radioactive Decay Law”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

イギリスのC.チャドウィックは,ラザフォードへの追悼文の中で,ラザフォードから研究の方法だけでなく科学に携わる人間に必要な粘り強さと堅実さを学んだことを記し,開拓者魂に溢れたラザフォードの逞しさについて「嵐の海を突き進む力強い戦艦のような人物」と述べています。

 

参考文献
「ラザフォード 20世紀の錬金術師」E.アンドレード著,三輪光雄訳(河出書房,1967年)
「自壊する原子 ラザフォードとソディの共同研究史」T.トレン著,島原健三訳(三共出版,1982年)
「ケンブリッジの天才科学者たち」小山慶太(新潮選書,1995年)
「アーネスト・ラザフォード 原子の宇宙の核心へ」J.ハイルブロン著,梨本治男訳(大月書店,2009年)

※「男爵ラザフォードの紋章」の画像はTe Ara-The Encyclopedia of New Zealandの了解のもとに使用しました。

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。