硫化水素の毒性と有益性

<背景>

前回、一酸化窒素(NO)を取り上げました。今回はNOと同様、ガス状分子の硫化水素(H2S)を取り上げます。H2Sは分子量34.08、空気より重く、可燃性、水溶性です。特徴として、卵の腐ったような特有の臭いがあり、温泉や火山の臭いとしておなじみです。自然界では火山性ガスとして噴出しますが、硫化物や蛋白質が分解する際にも発生します。

<毒性>

H2Sは水(H2O)のOが同族のSに変わっただけですが、毒性は大変強く、一酸化炭素よりはるかに強力で、青酸ガスに匹敵するといわれています。大気中における許容濃度は5 ppmと設定されています1)。400ppmで呼吸困難となり、1000ppmのH2Sを吸入すると短時間で死亡します2)。特有の臭いがありますが、100 ppm以上ではヒトの嗅覚が麻痺するとされ、高濃度では臭いに気づかず死に至る危険性があります。

毒性の仕組みはミトコンドリアに所在するシトクロムcオキシダーゼ(呼吸鎖の酵素のひとつ、細胞内でエネルギーATPを産生する)のヘムと結合し、酵素活性を阻害し、細胞の呼吸を止めてしまいます。また、肺や消化管から容易に吸収されて酸性を示すため、粘膜障害により、呼吸困難などが生じます。血中のヘモグロビンと反応して硫化メトヘモグロビンとなるため、中毒死体では死斑が緑褐色になります。

昭和46年12月、草津白根山のスキー場でH2Sが窪地に貯まっていることに気づかずに迷い込んだ6人のスキーヤーが死亡した事故がありました。H2S発生の危険性がある火山については、行政によるH2Sのモニタリングが行われています。

一方、都市部の下水道、下水処理場、糞尿タンクなどでも、H2Sが発生します3)。この場合、メタンガス発生などの酸欠も事故に関与しています。身近なところでは、ある種の入浴剤と酸性の液体が混合されると、H2Sが発生します。多くは偶発的な不慮の事故ですが、自殺の手段として、使われることがあります。平成19年に29人だったH2Sの自殺者数は平成20年には1,056人と急激に増加し、社会問題となりました。これは、報道やインターネットによる急激な情報拡散が関与しているとみられています。

<ガス状情報伝達分子H2Sの発見>

H2Sの毒性は1700年代から知られていましたが、1989年から翌年にかけて,哺乳類の脳に内在性H2Sが存在することが報告され,何らかの生理活性を持つことが予想されました4)。その後の研究により、生体内ではアミノ酸のL-システインからH2Sが生成されること、H2Sを生成する以下の様な3つの酵素があることが発見されました。

・シスタチオニンβ-シンターゼ(CBS):中枢神経系に加え、肝臓・腎臓などに存在。
・シスタチオニンγ- リアーゼ(CSE):肝臓・腎臓に加え、大動脈、消化管、膵臓などに存在。
・3-メルカプトピルビン酸硫黄転移酵素(3MST):多くの臓器に存在。

<生体内での作用>

H2S はCO、NOと同様、ガス状の低分子化合物です。これら3つの分子は高濃度では毒性がありますが、低濃度では生体中で情報伝達物質として働き、有益な働きをしています。H2Sには、次のような働きがあります。

神経伝達の調節因子:H2Sは記憶の形成に関与する海馬のシナプス結合の長期増強の誘導を促進します。中枢神経系を中心に生体内に広く分布するNMDA 受容体でのグルタミン酸感受性を増大させるためとされています。

平滑筋の弛緩因子:H2Sは大動脈,門脈,回腸などの平滑筋からなる組織を弛緩させます。例えば、平滑筋は消化管の粘膜下にあり、収縮と弛緩を繰り返すことによって、消化管運動が起こり、食物の消化・吸収が行われます。

細胞保護作用: 比較的最近になって、H2S に細胞保護作用があることがわかりました。H2S はアミノ酸のシスチンの取り込みを促進するとともに、グルタチオン合成酵素を活性化することで細胞内の抗酸化性物質のグルタチオン濃度の低下を防ぎます。また、H2Sは還元性物質であるので活性酸素種(ROS)のスカベンジャー(抗酸化物質)としても作用すると考えられています。他に、アポトーシス抑制、細胞膜電位の安定化、抗炎症作用、なども知られています。

<徐放型試薬>

生体内で作用するH2Sは極めて低濃度で、持続的に作用しています。このようなH2Sの生体内での作用を研究するための使いやすい試薬が必要です。無機物のNa2SやNaSHは水に溶けて、直ちに分解してH2Sを発生しますが、短時間のみ比較的高濃度のH2Sを発生するため、生体内での研究に使いにくいものでした。近年、試薬の開発が進み、低濃度H2Sの研究ではこの試薬を培養細胞や実験動物に投与すると、徐々に分解して持続的に目的とする細胞内や実験動物の臓器内で低濃度のH2Sを維持します5)。研究者は高濃度のH2Sに暴露されることなく、安全に研究が実施できます。CO、NOも同様に徐放性の試薬が実用化され、情報伝達の研究が飛躍的に進みました。

<最後に>

このように毒性の強いH2Sが生体内で有益な作用を持つことは不思議です。温泉地の水に見られる硫黄細菌は酸素の代わりに、硫黄や無機硫黄化合物を使って得られるエネルギーで生活しています。生物には硫黄を利用する能力が備わっているのでしょうか。

 

参考資料:
1. 日本産業衛生学会.許容濃度等の勧告(2017年度).産業衛生学雑誌. 59; 153-185, 2017.
2. 吉村英敏編. 硫化水素. 裁判化学、P.53-54.南山堂、1991.
3. 津田 征郎.下水道管内清掃作業中の硫化水素中毒死亡例.日本災害医学会会誌 40; 7-11, 1992.
4. Warenycia, M.W., Goodwin, L.R., Benishin, C.G., Reiffenstein, R.J., Grancom, D.M., Taylor, J.D. and Dieken, F.P. Acute hydrogen sulfide poisoning. Demonstration of selective uptake of sulfide by the brainstem by measurement of brain sulfide levels. Biochem. Pharmacol. 38: 973–981, 1989.
5. GYY4137. Technical Manual. 同仁化学研究所. http://dominoweb.dojindo.co.jp/goodsr7.nsf/View_Display/SB06?OpenDocument.

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上村 公一

東京医科歯科大学教授、専門は法医学、もと高校教諭(化学)。死因究明業務と薬毒物による細胞死の研究に従事。最近、テレビドラマの法医学監修もしている。

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