論文雑誌から削除された投稿 -多様性の尊重は科学の分野でも-

科学の研究結果は、査読付き論文として専門雑誌に掲載されることが最も重要であるとほとんどの研究者は考えています。皆さまご存じのNature誌は一般科学雑誌としてレベルが非常に高い(内容が難しいという意味ではなく、よほどの大発見でないと取り上げてくれないという意味)ことで知られています。化学の分野では、もともとドイツ化学会の専門雑誌であったAngewandte Chemie, International Edition(アンゲバンテと呼ばれる、以下Angew.と略)は現在最高峰の雑誌の1つとしてよく知られています。

さて、ごく最近カナダの化学者があるエッセイをこの雑誌Angew.に投稿し、査読を経て6月4日に掲載された1のですが、一部の内容を巡ってすぐさま批判が巻き起こり、程なくして削除されるという事件がおきました。この事件に関してはアメリカ化学会2や英国化学会3など多くの化学コミュニティにて批判的に報道されています。
問題のエッセイ“Organic synthesis—Where now?” is thirty years old. A reflection on the current state of affairsに書かれているうちの内容は、私のような何十年も科学の世界にいる者からすれば「あるある」のことも多いのですが、一部に問題となる記述が含まれています。例えば「(多様性を確保するために行われていることで)採用活動の際に、特定のグループに属していることが候補者の質よりも優先させることがある」とか、「科学分野への女性の参加を目的とする試みによって男性の貢献の機会が減っている」などのことが書かれているのです。
上記英国化学会の報道によれば、問題のエッセイを読んだ英国の化学者が6月5日にtwitterで問題点を指摘して、すぐに多くの化学者が怒りを表明しました。これらの反応の後6月6日には問題の投稿は削除されましたが、それだけにとどまらず、2人の編集者がその役職を追われ、このエッセイに関わった2人の査読者が査読者リストから削除されたとのことです。さらにこの雑誌のInternational Advisory Board(国際顧問委員会とでもいえばいいでしょうか)の中の1/3にあたる16名の化学者(ノーベル賞受賞者を含む)が意見表明4を行い、Advisory Boardから脱退しました。

さて、このAngew.という雑誌が非常に権威のある雑誌であったからこそ、ここまで大きな問題になったとも言えるのですが、そもそも学術雑誌はどのようにしてその内容の正当性を保っているのでしょうか。
論文が出版される過程を紹介しておきましょう(下図)。新たな発見をした研究者は最も適当だと考える雑誌に論文を投稿します。雑誌の編集者は、専門的な見地から判断できる査読者(大学の研究者であることが多い)2-3名にその原稿についての意見を求めます。査読者は実験方法や、推論の過程を審査し、その論文の正当性や雑誌に掲載の価値があるかどうかや修正の必要性についての意見を述べます。編集者は査読者の意見に基づいて、その論文を採択するかどうかを決めるのです。採択される場合でもたいていの場合一度は修正が求められます。多くの場合査読者が誰かは最後まで論文の著者には分からない仕組みです。査読は現在多くの科学分野では無料のボランティアでありますが5、科学者はこれによって世界の科学の発展に寄与していると考えてこれを真剣に行っているのです。今回の投稿は純粋科学的な内容ではありませんが、特に権威ある雑誌において科学の根幹に関わる「査読システム」がうまく機能しなかったことになり、それだからこそ大きな問題にもなっているのです。

昨今問題となっている人種や性による差別問題はアカデミックな世界でも誠に残念ながら無縁ではありません。今回の投稿はおそらく投稿者一人の問題ではないのです。地球上の皆が気をつけていくべきこととして今回取り上げさせていただきました。
ではまた次回お会いしましょう。

 

1)T. Hudlicky, “‘Organic synthesis – Where now?’ is thirty years old. A reflection on the current state of affair”, 実際の内容は削除されています。 以下も含めて2020年7月3日閲覧https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/anie.202006717
2Chem. & Eng. 2020, 8th June; https://cen.acs.org/research-integrity/ethics/Essay-criticizing-efforts-increase-diversity-in-organic-synthesis-deleted-after-backlash-from-chemists/98/web/2020/06
3Chem. World 2020, 9th June; https://www.chemistryworld.com/news/angewandte-essay-calling-diversity-in-chemistry-harmful-decried-as-abhorrent-and-egregious/4011926.article
4)https://twitter.com/Joseph_DeSimone/status/1270027702188163073/photo/1
5)以前は科学分野でも雑誌の査読は謝礼が出るものもありました。

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坪村太郎

成蹊大学理工学部で無機化学の教育、研究に携わっています。 低山歩きが趣味ですが、最近あまり行けないのが残念です。