銅(Cu)-世界有数の生産量を誇った日本の銅

 銅は古代から知られていた元素ですが,日本は近世を中心にして世界的な産銅国でした。今回は,主に江戸時代までの銅鉱業の歴史を見ていくことにします。

江戸時代までの銅の供給と利用

日本では,弥生時代前半の金石併用時代に鉄器と青銅器の使用が始まったことが出土品などから判っています。鉄器は工具や農具として使われ,青銅器は鏡,たくほこ,剣といった宝器や祭器として使われました。この時代には国内で産出する金属資源としては砂鉄が知られていた程度で,金属器は中国大陸や朝鮮半島から輸入されました。その後,鉄器は輸入した地金から作られるようになり,青銅器は次第に国内で鋳造されるようになりました。

仏教が伝来すると,仏具と共に金属利用の技法が帰化人や遣唐使などによってもたらされ,鉱業としての発達をみるようになりました。青銅の需要が増加すると,その材料となる銅・すず・鉛,さらには金・銀・水銀などを国内で調達できるようにと,朝廷は鉱山の探査・開発と鉱業振興を奨励しました。708(慶雲5)年に武蔵国秩父郡から自然銅が献上されて年号が「和銅」(708~715年)に改元され,元正げんしょう天皇は,718(養老2)年に養老律令に贖銅しょくどう法を定めました。贖銅法は,銅を官司に納めると一定の刑について実刑を免れ,罰金刑になる制度でした。これらはいずれも日本の鉱業の黎明期のできごとです。

 

 

「日本通貨発祥の地」碑(埼玉県秩父市黒谷の和銅採掘露天掘跡,高さ約5㍍)
出典:kyhmによる”monument,Chichibu,Saitama,Japan”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

和同開珎わどうかいちんより古く683(天武天皇12)年に作られたと推定される銭貨として富本銭ふほんせんがあります。富本銭の素材は主に銅で,銀,アンチモン,ビスマスを含みます。なお,富本銭については,通貨としてではなく好運を願って所持する護符ごふ厭勝銭ようしょうせん)の一種であるとする説もあります。

 

 

富本銭
出典:国立文化財機構による”
東京国立博物館所蔵の富本銭”ライセンスはCC BY 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

初期の銅は,地表付近に見付かった自然銅のほかに,酸化物や炭酸塩の鉱石を採掘して製錬するものでした。この頃の銅の使用は貨幣鋳造と大仏建立が代表的で,元明天皇は,和銅元年に貨幣鋳造を始め,鋳銭司すぜんじ銭貨せんかの鋳造所)を近江国に置いて貨幣「和同開珎」を発行したのです。また,仏教の興隆に力を入れた聖武天皇は,743(天平15)に大仏鋳造を発願ほつがんしました。

大仏などの大きな金属器物の製作には砂型鋳造法が古くから行われてきました。砂型鋳造法では,先ず,木粉・石粉・粘土などに固結剤を混ぜたもので原型を作り,表面に雲母粉を塗ります。雲母粉を塗るのは,流し込まれた金属との剥離はくり性を高めるためです。
続いて原型の上に再び粘土を塗り付け,その粘土が乾いたら,塗り重ねた分の粘土を切り分けながらがします。これが外皮になります。次に原型の表面を数㎝削り取り,原型と外皮との間の隙間を作ります。最後に,外皮と原型を合わせて全体を補強し,隙間に金属が流し込まれるのです。
東大寺の本尊となった盧舎那仏るしゃなぶつの鋳造には,744(天平16)年の起工から751(天平勝宝3)年までに8年が費やされ,奈良時代の銅の使用量は,東大寺の大仏料銅が約500㌧であったことから,約1000㌧であったと推定されています。

平安時代以降も青銅の主な需要は仏教用具と貨幣でした。鉱業技術は当初は未発達でしたが,戦国期に製錬技術が進展すると,銅は日本の主要な輸出品になりました。この間,太閤検地によって全国の鉱山の所在が明らかになり,鉱産物は全て献上することとされ,江戸期には尾去沢(秋田県),足尾(栃木県),別子(愛媛県)などから盛んに銅が産出されました。
銅の輸出は,鎖国後も長崎でオランダ,中国に対して続けられました。諸国の銅山から銅が大坂に回送され,吹屋ふきやで輸出用のさお銅や地売用の丁銅・丸銅など種々の形に加工されました。次の写真は『鼓銅図録こどうずろく』の一部です。『鼓銅図録』は江戸後期の銅の採掘と冶金技術の解説書で,大坂で銅吹屋を営んだ泉屋(住友家)が作成しました。写真は〈銅なまり吹分ふきわけ〉で,「南蛮吹なんばんぶき」という方法で銅から銀を取り出す工程です。

 

 

 

 

 

 

 

『鼓銅図録』より〈銅鈆を吹分る圖〉
(大阪市中央区島之内,三井住友銀行大阪事務センター, 平成24年10月・撮影)

17世紀後半から18世紀前半まで日本は世界1位の銅生産量を誇りましたが,その後は18世紀半ばにイギリスに抜かれ,19世紀に入るとチリに抜かれました。そして幕末になると,国防策の一環として青銅砲の鋳造が始まりました。

 

銅像製作の歴史

銅像は神仏・人物・動物などを模して造られ,多くは青銅製の像です。その歴史は古く,現存する世界最古の銅像はエジプト考古学博物館(カイロ)にあるエジプト第六王朝の第三代ファラオ,ペピ1世像(約4000年前)です。
日本で最初に製作された西洋式の銅像は兼六園(金沢市)の明治紀念之標(1880年)です。これは九州へ熊襲くまそ退治に行った日本武尊やまとたけるのみことの立像で,西南戦争で犠牲になった郷土軍人の慰霊を目的として建てられました。

 

 

 

 

 

ペピ1世像
出典:Jon Bodsworthによる”Full-sized image of a life-size copper statue of pharaoh Pepi I.”(WIKIMEDIA COMMONSより)

日本には仏像製作の歴史は古くからありましたが,西洋風の銅像を製作するのに必要な彫刻家,鋳造技術者は不足し,高村光雲といった仏師出身の木彫家が銅像製作の先駆的な存在になりました。大正期から昭和初期にかけて多くの西洋式銅像が製作されましたが,日中戦争が始まると不足する物資を補うため,銅像は「応召」や「出征」と称して強制的に供出させられ,陶磁器やコンクリートの代用品さえ現れました。政府は1941(昭和16)年に金属類特別回収(その2年後に銅像等非常回収)を実施し,渋谷駅頭のハチ公像(1934(昭和9)年に建造)も軍人の像さえも,鋳潰いつぶされた悲しい歴史があります。

形ある物は命をも宿すと言われます。ハチ公は,東京帝国大学農学部の上野英三郎教授の愛犬であった秋田犬で,除幕式には「本人」も出席しました。ハチ公は1935(昭和10)年に天寿を全うし,ハチ公像は供出され,終戦前日に熔解されて機関車部品になったとされます。かつての忠犬の像は形を変え,力強く列車を牽引したことでしょう。現在の像は1948(昭和23)年に再建されたものです。

 

銅メダルは「ブロンズメダル」

第1回近代オリンピックが1896年にギリシアのアテネで行われたとき,競技の優勝者には銀メダル,準優勝者には銅メダルが贈られ,3位入賞者には賞状だけが贈られました。
現在のオリンピック憲章には,「メダルは,少なくとも直径60㎜,厚さ3㎜でなければならない。1位及び2位のメダルは銀製で,少なくとも純度1000分の925であるものでなければならない。また,1位のメダルは少なくとも6gの純金で金張り(またはメッキ)が施されていなければならない」とあります。
銀メダルは,純度92.5%以上(強度を増すために銀93%に銅7%程度を加える)の合金でできており,金メダルはその表面に6g以上の金をメッキしたものです。銅メダルの素材は,やはり強度を増すため銅97%と亜鉛・錫3%の合金で,青銅(ブロンズ)にあたります。「銅メダル」と言われますが青銅製で,「銅像」が青銅製であるのと似ています。

第1回アテネオリンピックの銅メダル
出典:PIERRE DE COUBERTIN, TIMOLEON J. PHILEMON, N. G. POLITIS AND CHARALAMBOS ANNINOSによる”Erinnerungsmedaille aus Kupfer”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

メダルは金属塊にあらず。気魄と記憶を宿す努力のあかしなのです。古代も現代も,たゆまぬ努力を重ねた全てのアスリートたちは,勝者も敗者も皆,等しく尊敬に値します。

 

参考文献
「金属資源レポート・歴史シリーズ 銅」独立行政法人・石油天然ガス・金属鉱物資源機構(2005・2006年)(www.jogmec.go.jp)
「東京の銅像を歩く」木下直之監修(祥伝社,2011年)
「学問としてのオリンピック」橋場 弦・村田奈々子編著(山川出版社,2016年)
「オリンピックの真実 それはクーベルタンの発案ではなかった」佐山和夫著(潮出版社,2017年)
公益財団法人・日本オリンピック委員会のホームページ(www.joc.or.jp)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。非常勤講師として2019年に名古屋工業大学「科学史」(工学部二部),2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」(全学部共通)を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。