酸素(O)-酸素の発見と二人の化学者

 酸素の二回目は,酸素の発見に関連して,C.シェーレ(1742~1786)とJ.プリーストリ(1733~1804)の生涯を中心にご紹介します。

戯曲になった酸素発見

ブルガリアの化学者C.ジェラッシ,1981年のノーベル化学賞を受けたポーランドの化学者R.ホフマンの二人は『Oxygen』と題する戯曲を2001年に発表しました。
この劇では,ラボアジエ夫妻,プリーストリ夫妻,シェーレ夫妻が登場し,1777年と2001年のストックホルムを交互に行き来して物語が進みます。日本でも2017(平成29)年に上演されました。


舞台「酸素 誰が『発見』した?」のポスター
 (2017年,国立科学博物館)
 主催:科博SCA(国立科学博物館サイエンスコミュニケータ・アソシエーション)
    演劇分科会・蓑田裕美氏
 協力:独立行政法人・国立科学博物館

 

二人が化学者になるまで

酸素の発見者とされるシェーレとプリーストリはどんな人物だったでしょうか。先ずはシェーレからご紹介します。
シェーレは,スウェーデン領時代のシュトラールズント(Stralsund)に商人の子として生まれました。シュトラールズントはバルト海に面したドイツの港湾都市で,13世紀に成立し,ハンザ同盟の一員となりました。17世紀には三十年戦争の講和(ヴェストファーレン条約)によってスウェーデン領となりましたが,19世紀にはナポレオン戦争で二度戦場になった後はプロイセン王国の支配下に置かれ,帰属が幾度か変遷しました。2002年にはユネスコの世界遺産「シュトラールズント歴史地区とヴィスマール歴史地区」(文化遺産)に登録されました。

 

 

 

 

 

 

シュトラールズントのシェーレ・ハウス(生家)
出典:Klugschnacker aus Stralsundによる”Stralsund, Germany, Scheele-Haus (2006-09-29)”ライセンスはCC BY-SA 2.5(WIKIMEDIA COMMONSより)

シェーレは11人兄弟の七番目で,初等教育を終えたばかりの14歳で造船の街イェーテボリの薬屋に見習いとして入りました。薬屋の主人は理解ある人で,シェーレは仕事の傍らに手近な薬品と器具で実験を行い,化学書で学ぶこともできました。しかし,奉公して8年になった頃,主人が老齢を理由に店を閉めたので,やむなくシェーレはストックホルム,ウプサラなど各地を転々としました。

プリーストリは,イングランド中北部の商業都市リーズ(Leeds)に近いフィールドヘッド(Fieldhead)で織物職人の長男として生まれました。リーズは羊毛工業が盛んで,産業革命時にはその中心的な都市でした。
プリーストリの幼時は病弱で,6歳で母を亡くし,父は再婚したので,伯母に引き取られました。伯母の影響で19歳から3年間,彼は非国教会派のアカデミーで教育を受けました。当時はオックスフォード,ケンブリッジなどの名門大学には国教徒しか入ることができませんでしたが,非国教徒アカデミーでは自然科学の教程も取り入れられていました。1761年にプリーストリはウォリントン・アカデミーに招かれ,語学や文学を教えるようになりました。実験を愛好する彼は,薄給の中から空気ポンプや起電機を購入し,授業にも使いました。

そんな彼に自然科学への道を開いたのはアメリカのB.フランクリンでした。避雷針を発明し,有名な凧の実験をした人物です。フランクリンがロンドンを訪れた時,ロンドンを旅行中だったプリーストリは,必要な書籍が入手できれば電気学の歴史を書きたい,との気持ちを知人を介してフランクリンに伝えました。フランクリンはそれに応え,プリーストリは友人の援助も得て1767年に『電気の歴史と現況』を完成させました。この業績でプリーストリは王立協会会員に推挙されました。

 

シェーレ-「火の空気」の発見

27歳のシェーレに化学の才を見出したのは,ウプサラ大学の化学教授T.ベリマンでした。二人の出会いは1770年,次の反応が契機でした。

4KNO+4CHCOOH→4CHCOOK+4NO+O+2HO

 ベリマンは,シェーレの薬屋で硝石を購入し,酢酸と共に熱したところ,赤い煙(二酸化窒素)が発生しました。この反応の解釈に苦慮していたベリマンに,シェーレはこう説明しました-「硝石を酸の存在の下に熱すると燃素が火から硝石に移り,燃素は更に赤い煙に移って逃げたのです」。
ベリマンはシェーレの実力を知り,彼に軟マンガン鉱(酸化マンガン(Ⅳ),MnO)の研究を任せました。1771年から翌年にかけてシェーレは,軟マンガン鉱に濃硫酸を加えて熱したときに発生する気体を膀胱ぼうこう袋に捕集する実験を行いました。この時代の気体捕集法は現在とは異なるもので,気密性が良く扱いやすい牛や豚の膀胱が使われました。捕集された気体の中で蝋燭ろうそくの炎は大きくなり明るく輝いたのです。シェーレはこの気体を「火の空気」と呼びました。

2MnO+2HSO→2MnSO+2HO+O

 シェーレによる酸素の発見は1773年には完成したとされます。すなわちシェーレは,軟マンガン鉱と酸との反応のほかに,硝石(硝酸カリウム,2KNO),酸化銀(Ⅰ)(AgO),酸化水銀(Ⅱ)(HgO)などの加熱分解によっても「火の空気」が生じることを確かめました。それぞれの反応は次の化学反応式で表されます。

2KNO→2KNO+O
2AgO→4Ag+O
2HgO→2Hg+O

 シェーレはまた,瓶の中に「火の空気」を入れ,水を混ぜた鉄粉などと共に放置すると,体積が約三分の一だけ減ることを見出し,空気中でリン,水素,蝋燭,炭,アルコールなどを燃やしても同様のことが起きることを確かめました。そして空気中にあって燃焼に関与しない気体(窒素)を「汚れた空気」と呼びました。


シェーレの論文にある実験装置の図
出典:Carl Wilhelm Scheele, Torbern Bergmanによる”ScheeleRoyalSwdAcadChemObservatnsAir&Fire”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

シェーレは,自ら発見した酸素と物質の燃焼について,燃素説の立場から,熱は「火の空気」と燃素から成るとし,酸化水銀の熱分解などは熱によって「火の空気」が追い出される現象であると考えていました。しかし,燃焼によって失われた気体がどうなったかや,失われた気体が何であるかについて,燃素説の立場からは証明することができませんでした。
シェーレは,燃素説に基づきながらも様々に変容する元素を追跡し,1775年までのウプサラ時代に多くの発見を行いました。例えば1774年,軟マンガン鉱の強い酸化作用を用いて塩素と酸素とを単離しました。シェーレは,捕集された高い反応性を示す黄緑色の気体を‘燃素を奪われた塩酸’とみなし,「脱燃素塩酸」と呼びました。

MnO+4HCl→MnCl+2HO+Cl

こうした業績に対して,1774年に市井の薬剤師としては破格の待遇により,スウェーデンの王立科学アカデミー会員に推挙されました。
シェーレがフランスのA.ラボアジエに宛てた書簡(1774年9月30日)には,酸素の製法と性質に関する最も早い記述があります。そしてシェーレは1777年に出版された『空気と火に関する化学的考察』に研究成果をまとめました。

その後のシェーレは,古くからの交易地チェーピンに自分の薬局を開業し,長年の夢を叶えました。しかし,世渡りに慣れないシェーレは借財を抱えた店の経営に失敗し,店の持ち主に解雇されました。それを知った町の人々は,これでは町の名折れだとして店の売却を御破算にし,シェーレは1782年に新居と実験室を構えることができたのです。

 

プリーストリ-空気の研究者

空気が元素であると考えられていた時代を経て,18世紀のイギリスではJ.ブラックが「固定空気」(二酸化炭素),H.キャヴェンディッシュが「可燃性空気」(水素)を発見しました。
こうした中で,プリーストリは空気に様々な種類があると考えました。気体に関する実験で彼は,水に溶けにくい気体には水上捕集,水に溶けやすい気体には水銀上捕集が適することを会得しました。そして二酸化硫黄(SO,当時は「ばん酸空気」),アンモニア(NH,「アルカリ空気」),塩化水素(HCl,「海酸空気」)などを水銀上に捕集し,その性質を調べました。

1771年の夏,プリーストリは,ガラス鐘の中にハッカ(薄荷)の小枝を入れ,中で蝋燭を燃やし,火が消えてから10日間放置した後に再度点火すると蝋燭は燃えることを確かめました。彼は「植物には蝋燭がもはや燃えなくなった空気を新しく蘇らせる力がある」ことを知ったのです。
1772年には,鉄などの金属に硝酸を作用させて一酸化窒素(NO,「亜硝酸空気」)をつくりました。この気体を鉄屑と硫黄に接触させると体積が減少すること,そのときに生じた気体(酸素)は燃焼を支持することを発見しています。これは一酸化窒素の還元による亜酸化窒素(NO,笑気)の生成(次式)で,彼は生成物を「減容硝空気」と呼びました。

4NO→2NO+O

1774年8月1日,プリーストリは凸レンズで集光して酸化水銀(Ⅱ)を加熱し,「脱燃素空気」すなわち酸素を発生させて水上捕集しました。しかしプリーストリは,これを減容硝空気であると考えました。
その後に繰り返された実験で,普通の空気(common air)より呼吸支持力が数倍大きいことが分かり,彼は新しい物質であることを認識して王立協会に報告書を送っています。この気体には空気中よりも明るく物を燃やす性質があり,プリーストリは次のように書いています。-「そのうち,この純粋な空気を吸うことが贅沢な流行にならないと誰が言えよう。これまでのところ,これを吸う特権にあずかったのは2匹のねずみと私だけである」。

 

 

 

 

 

 

リーズ市の広場にあるプリーストリの立像
(右手に集光レンズ,左手に容器を持っている)
出典:Mtaylor848による”Statue of Joseph Priestley on Leeds City Square.”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

1780年,プリーストリはバーミンガムの教区牧師となり,J.ワットやJ.ウェッジウッド,E.ダーウィン(進化学者C.ダーウィンの祖父)らがいる「月の会」の会員と交友をもちました。彼が1772年から1779年にかけて行った実験をまとめた『様々な種類の空気に関する実験と観察』(1790年刊)はこの時期に出版されました。

国教会に対し批判的だった彼は,仏米の革命家たちに共感していました。1791年7月14日,フランス革命でのバスチーユ牢獄陥落二周年を祝う会がバーミンガムで行われたとき,これに反対する市民は暴徒化してプリーストリの教会や実験室も襲撃しました。一家は無傷でロンドンへ逃げましたが,フランス政府からフランスの市民権を与えられるに及んで国内での非難は頂点に達し,プリーストリはアメリカへ移住しました。


バスチーユ監獄の暴動が描かれたフランス革命200年の記念切手
(セイシェル共和国,1989年)

出典:Post of Seychellesによる”Stamp of Seychelles – 1989 – Colnect 836610 – Storming of the Bastille”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

アメリカでのプリーストリは,ペンシルバニア大学への就任を請われましたが,やがては帰郷する気持ちから断り,アメリカ哲学協会の外国人会員としてフィラデルフィア郊外のノーサンバーランド(Northumberland)で余生を過ごしました。酸素発見100周年の1874年にはペンシルバニアにアメリカの化学者が多数集まり,1876年のアメリカ化学会(ACS)創設の契機となりました。

 

参考文献
「酸素の發見」J.プリーストリ著,原 光雄訳編(大日本出版,1946年)
「化学史」久保昌二著(白水社,1959年)
「化学史傳」山岡 望著(内田老鶴圃新社,1979年)
「百万人の化学史 「原子」神話から実体へ」筏 英之著(アグネ承風社,1989年)
「読み切り化学史」渡辺 啓・竹内敬人著(東京書籍,1989年)
「元素発見の歴史1」M.ウィークス・H.レスター著,大沼正則監訳(朝倉書店,1990年)
“OXYGEN A play in 2 acts”, C.Djerassi, R.Hoffmann,Wiley-VCH(2001)
プリーストリ:「酸素の発見」と燃焼の本質,河野俊哉,化学と教育,65(8),376-379(2017)
カール・ウィルヘルム・シェーレ:もう一人の酸素ガスの発見者,内田正夫,化学と教育,65(8),380-383(2017)

※ 舞台「酸素 誰が『発見』した?」のポスターの提供にあたり,蓑田裕美氏(国立科学博物館認サイエンスコミュニケータ)にご協力いただきました。ここに御礼を申しあげます。

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。非常勤講師として2019年に名古屋工業大学「科学史」(工学部二部),2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」(全学部共通)を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。