有機リンと神経ガス・農薬への応用

<はじめに>

これまで3回にわたり、CO、NO、H2Sとガス状の情報伝達分子を取り上げ、生体の恒常性の維持にとって、重要な働きを持っていることを書いてきました。
今回は生体を構成する元素では6番目に多いリン(P)を取り上げます。Pは主にリン酸塩として動物の骨や歯に多く含まれ、また、細胞内のエネルギー源であるATPや遺伝情報であるDNAの構成元素としても重要す。今回は、リンの毒性とその応用について書きます。

<毒性>

自然界ではPはリン鉱石にリン酸カルシウムなどの化合物として含まれています。Pの単体には黄リン・赤リン、などの同素体があります。一般に無機リンの毒性は弱いが、例外的に黄リンの毒性は強く、にんにく臭があります。一方、有機リンの毒性が強いことから、農薬として用いられてきました。歴史的には、1936年ドイツの化学会社バイエル社のSchraderシュラーダーにより新しい有機リン系殺虫剤の開発が始められ、1942年にピロリン酸テトラエチル(TEPP)、1944年にパラチオンが合成されました(図1)。

図1 パラチオン

我が国ではイネの害虫ニカメイチュウの殺虫剤として広く使われました。しかし、強い殺虫力をもつ反面、ヒトに対しても強い急性毒性を示します。TEPPは商品名ニッカリンTとして流通し、1961年の三重県名張で5人が死亡した「名張ぶどう酒事件」で使われたことでも有名です。さらに、TEPP、パラチオンともに撒布時の事故が多発したため、いずれも1971年には使用禁止になりました1。そのため、よりヒトへの毒性が低い有機リン剤の開発が望まれ、1950年に開発されたマラチオンを皮切りに、現在では100種以上の有機リン剤が使われています。

<毒性のしくみ>

生体の神経で電気刺激が中枢から神経末端に伝わると、アセチルコリンという神経伝達物質が放出されます。この物質が神経と筋肉の接合部のシナプス間隙を渡って筋肉側のアセチルコリン受容体に結合すると、刺激は筋肉に伝わり、筋肉が収縮します。その後すぐにアセチルコリンはアセチルコリンエステラーゼという酵素で加水分解され、筋肉は弛緩します。そうしないと、筋肉はいつまでも収縮した状態になってしまいます。有機リンの毒性についてパラチオンを例に説明します。パラチオンは生体内でパラオキソン(図2)に酸化され、シナプスで働くアセチルコリンエスエラーゼ(AChE – OH)の活性中心にある水酸基(– OH)に共有結合します(図3)。

図2 パラオキソン  

    図3 不活化されたアセチルコリンエステラーゼ

こうなると、アセチルコリンエステラーゼは酵素活性を消失し、不活化されます。不活化されたアセチルコリンエステラーゼは逆反応の加水分解が非常に遅いため、これが毒性の原因となっています。症状として、けいれん、縮瞳、などがみられます。治療法は、解毒剤プラリドキシムヨウ化メチル(2-PAM)の投与が行われます。

<神経ガス>

ドイツでは有機リン系殺虫剤の開発と並行して、化学兵器(神経ガス)としての開発も開始されました。タブン(1937年)、サリン(図4、1938年)、ソマン(1944年)は第二次世界大戦中に開発されましたが、終戦のため実戦で使用されることはありませんでした。その後、最強の毒ガスといわれるVXが1952年イギリスで合成されました。神経ガスは合成のための設備が比較的簡単なため、核兵器に比べ、多くの国で作られています。現在ではこれらの化学兵器は世界各地で合成・貯蔵されており、その廃棄が国際問題となっています。

図4 サリン

神経ガスの実戦使用について、1983年イラン・イラク戦争でタブンが使用されたことが確認されました。また、1988年にイラク政府によるクルド人攻撃でサリンが使われました。さらに、神経ガスはテロの手段としても使われました。我が国のオウム真理教によって1994年に長野県、1995年に東京でサリンが使用され、多数の死傷者がでました。VX(図5)は1994年にはじめてオウム真理教によって大阪で使われ、2017年2月にはクアラルンプール国際空港で発生した暗殺事件でも使われました。

図5  VX

神経ガスは空気中に放出されて拡散するため、使用後に神経ガスそのものを検出することは難しいことから、長野県のサリン事件では原因が確定するまで長い時間を要しました。ちなみに、神経ガスの確認は次の方法が使われます。神経ガスの一部は土壌に入って加水分解されます。分解産物は比較的安定で、分解産物が検出されれば、神経ガスが使用されたことが証明されます(図6)。したがって、神経ガスが使用されたと推定される地域の土壌や水を採取し、質量分析法を用いて分解産物を検出します2

図6 サリンの分解産物(メチルホスホン酸イソプロピル)

 

参考資料:
1. 濱田昭ら. 有機リン剤各論. 裁判化学、P.194-199.南江堂、1996.
2. Anthony T Tu. 化学兵器. 中毒学概論 –毒の科学-. P.131-173.じほう、1999.

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上村 公一

東京医科歯科大学教授、専門は法医学、もと高校教諭(化学)。死因究明業務と薬毒物による細胞死の研究に従事。最近、テレビドラマの法医学監修もしている。

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