水の微小液滴中で過酸化水素は生成するのか

皆さんこんにちは。今回は現在論争となっている大変興味深い実験結果についてお話ししましょう。2019年に米国スタンフォード大学のZare教授らは驚くべき報告をしました[1]。水を非常に細かい(直径1μm~20μm程度)液滴にして噴霧すると、それだけで特に他の薬品を使わなくても過酸化水素が作られるというものです。
ご存じのように過酸化水素の化学式はH2O2ですが、H-O-O-Hのように-O-O-結合部分を持っていることが特徴です。このような-O-O-部分を持っている物質は一般に過酸化物(ペルオキシド)と呼ばれ、非常に反応しやすいことが知られています。過酸化水素が溶けた水、すなわち過酸化水素水は、二酸化マンガンを加えると酸素が発生すること、オキシドールとして消毒薬として使われることなどはよく知られていますね。消毒薬は3%程度の濃度でそれほど危険性はありませんが、高濃度(最高35%)の過酸化水素水は手につくと手が真っ白になって痛み、危険なものですので注意してください。なお、家庭でも使われているいわゆる酸素系の漂白剤は、過酸化水素と炭酸ナトリウムを含む固体です。
さて現在、過酸化水素は有機物の過酸化物を用いる複雑な方法で製造されていますが、冒頭でも述べたとおり、物理化学の分野で著名なZare教授が画期的な方法を発見したという報告がなされました。図1のように高純度の水を窒素ガスの気流で噴霧するだけで、過酸化水素(最大30μmol/Lの濃度)が発生するというものです。参考文献1にあげた論文は無料で誰でも見ることができますが(https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.1911883116)、その中には動画もあり、過酸化水素に当たると青く変色する試験紙を用いて、過酸化水素が実際に発生している様子を見ることができます。

過酸化水素が発生する理由ついて、彼らは微小なサイズの液滴と大気の間には109 V/mにもなる非常に大きな電場が発生し、そのために水中の水酸化物イオン(OH)から電子が引き抜かれて、OH・ラジカルと呼ばれる物質ができ、それが2個結合することでH-O-O-Hが生成すると説明しています。
ところが、本年になってサウジアラビアのキング・アブドゥラー科学技術大学の研究者であるH. Mishraらは、前述の結果と相容れない実験結果を報告しました[2]。彼らは注意深く過酸化水素発生の実験を再現する研究を行いました。その結果、オゾンが存在するときのみ過酸化水素が発生するという結論を出したのです。オゾンは大気中で地表から20 km程度の高いところに比較的多く存在してオゾン層を形成していますが、地表付近でもわずかに存在します。地表付近のオゾン濃度は日本や米国では数十ppb(1ppbは10億分の1)程度だそうです[3]。この程度の濃度のオゾンが存在する条件で実験を行うと2−30μmol/Lの濃度の過酸化水素が生成したのに対し、オゾンの濃度をできるだけ少なくすると過酸化水素の発生が見られなかったと報告しています。大気中のオゾンが過酸化水素発生の原因と結論づけました。
これに対して、本家のZareらのグループはごく最近の論文[4]で、やはり過酸化水素は水から自発的に生成するのであると主張しています。ただし、最初の発表と異なりオゾンがないときは1.5μmol/Lの量が発生したという結論が得られました。彼らは論文の最後で、確かにオゾンとの接触が過酸化水素発生の重要な経路ではあるが、オゾンがなくても過酸化水素を発生させることができると締めくくっています。
皆様どのように感じるでしょうか?当初の発表の過酸化水素の大部分はどうもオゾンの反応によるもののようですね。この反応の全貌が明らかになるにはまだしばらくかかりそうです。でも感染症が大きな問題となっている現在、消毒薬にもなる過酸化水素が簡単に作ることができる方法につながれば一大発明となることでしょう。それではまた次回。

 

[1] J. K. Lee, K. L. Walker, H. S. Han, J. Kang, F. B. Prinz, R. M. Waymouth, H. G. Nam and R. N. Zare, Proc. Natl. Acad. Sci., 2019, 116, 19294–19298.
[2] A. G. Jr, N. H. Musskopf, X. Liu, Z. Yang, J. Petry, P. Zhang, S. Thoroddsen, H. Im and H. Mishra, Chem. Sci., 2022, 13, 2574–2583.
[3] https://www.data.jma.go.jp/gmd/env/ozonehp/sonde_graph_monthave.html#setumei このサイトではオゾンの高度による分布が分かる。なお地表付近で5 mPaなら、50 ppbに相当する。(2022年7月31日閲覧)
[4] M. A. Mehrgardi, M. Mofidfar and R. N. Zare, J. Am. Chem. Soc., 2022, 144, 7606–7609.

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坪村太郎

成蹊大学理工学部で無機化学の教育、研究に携わっています。 低山歩きが趣味ですが、最近あまり行けないのが残念です。