欧州の野生イノシシへの核実験の影響

福島の原子力発電所事故以来たまっている処理水の放出が、国内外で大きな話題となっています。ヨーロッパでは、1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所(現在のウクライナのチョルノービリにある)の事故によって、多量の放射性物質による汚染が広がりました。そのために、多くの国で野生動物を食べることが禁止されました。問題となる放射性物質の1つが137Csです。137Csの半減期は30年とされ、現在はシカなどの多くの動物の肉においては137Csの濃度は食用の基準値以下に下がっているとのことです。ところが、イノシシの肉においては40年近くたった今もその濃度があまり下がっておらず、基準値を超える個体が多いことが知られており、これは野生イノシシの謎(Wild boar paradox)といわれてきました。今回ドイツの研究者たちは、バイエルン州のイノシシのデータを詳細に調査し、実はチェルノブイリ原発事故より遙か以前の、主に1950-60年代に行われた核実験の影響が残っているためであることを発表しました[1]

図1 235Uに中性子が衝突することで多様な核分裂反応が生じるが、ここにはそのうちの3つの例を示した。1個の中性子が衝突することで2~3個の中性子が生成するため、連鎖反応が起こる。今回問題となる137Csと135Csはそれぞれ137Xeと135Xeから生じる。原子炉中では多くの135Xeは中性子と反応して安定な136Xeになるため、原子炉ではあまり135Csが生成しない。

 さて、原子の中心に位置する原子核は、様々な原子核反応によって別の元素の原子核に変化します。核燃料である235U(質量数が235のウラン、天然ウランの中に1%以下含まれる)の原子核は、原子炉の中で核分裂反応を引き起こし、2つの原子核に分裂します。様々な種類の原子核が生成し、それらは一般に短時間で別の原子核に変化します。原子炉の中で235Uの核分裂がおこると、例えば137Xe(質量数が137のキセノン)が生成します[2]が、それは半減期が3分程度と短く、ベータ壊変と呼ばれる反応によって137Cs(質量数137のセシウム)に変化します。セシウムには質量数の異なる多数の同位体がありますが、質量数が135の同位体も放射性となっています。135Csは135Xeから生成します。135Xeはやはり235Uの核分裂によって生成するのですが、原子炉中で多く飛び回っている熱中性子を吸収しやすいという性質があり、その結果多くの135Xeは中性子数が1つ増えた136Xeに変化します。136Xeは安定で放射能も示しません。従って原子炉中では135Csはあまり生成しません。ところが同じ235Uの核分裂でも、原子爆弾などの核爆発の場合は、中性子が当たるのは一瞬ですぐに爆発生成物が広がっていくので、多くの135Xeは生き残り135Csに変化していくのです。135Csは半減期が230万年と長く、非常に長期間にわたって放射線(ベータ線)を出し続けます。この結果、核実験の場合と、原子炉の事故の場合では、放射された135Csと137Csの比率が異なってきます。核実験の場合は135Cs/137Csの比が高くなり、原子炉の事故の場合はその比が小さくなります。今回ドイツの科学者はこの理屈を利用して、イノシシの肉の放射性セシウムの原因が何かを検討しました(図2)。

図2 野生イノシシへの137Csの蓄積には2つの原因があることを示す図。Stägerらの文献1から引用。(CC-BY4.0)

 研究者らはまず、ドイツバイエルン州内の各地で獲れたイノシシの肉の分析を行いました。肉の中の137Csからの放射線の量は固体によりかなり異なり、370から15000 Bq kg-1の範囲でした。なお、EUの基準では600 Bq kg-1以上の肉は食肉として流通できないことになっているそうです(日本の基準は100 Bq kg-1)。バイエルン州内では南部ほどチェルノブイリの事故による土壌への137Csの堆積量が多いということが知られており、確かにイノシシ肉においても地域ごとの137Csの放射線量の最高値は、南部の方が高いという結果が見られました。しかし、南部の地点のイノシシでも放射線量が非常に低い個体もあり、州内のすべての個体で見ると、特に場所と放射線量の間に特定の傾向は認められませんでした。しかし、135Cs/137Csの比を調べてみると新たなことがわかったのです。この比は、州内の北部の地域ほど高いという傾向がはっきり見えてきたのです。つまり、チェルノブイリの事故後137Csが多く堆積した南部地域では、イノシシの肉の137Csはチェルノブイリ由来である割合が多く、北部地域では1960年代までの核実験由来の割合が多いことがわかりました。
図3は、今回の調査対象以外の米国や日本(福島)で獲れたイノシシ肉の135Cs/137Cs比を表したものです。大きな円は、135Cs/137Cs比が大きいこと、つまり核実験の影響が大きいことを表し、福島周辺を含めた小さい円は、原子炉の事故によるものを表しています。

図3 野生イノシシ肉における135Csと137Csの比を表した図。円が大きいほど135Csの割外が大きいことを示す。Stägerらの文献1から引用、同文献Figure3の一部分。(CC-BY4.0)

 これらの結果から、欧州のWild boar paradoxを解く鍵が見つかりました。1960年代までの核実験では総量600 PBq (1 PBqは1×1015 Bq)以上の放射性137Csが放出されたといわれており、これはチェルノブイリ事故で放出された総量85 PBqよりもはるかに多くなっています。しかし最後の大気中での核実験から70年近くが経過し、当時放出された137Csは地表面ではほとんどなくなりましたが、地中ではまだ残っています。イノシシは地中のキノコや植物の根などを掘り出して食べるために、昔の核実験で放出された放射性物質を含むえさを食べ、それが体の中に蓄積されていると結論づけられました。
原子力発電所の事故も取り返しのつかないものですが、人類はかつてさらに途方もない実験をしてしまったものです。核実験にせよ、原発の事故にせよ、一度起こすと長期にわたって人類や地球上のすべてに対して大きな影響があるということを、人類は改めて認識すべきだと思います。それではまた次回。

 

[1] F. Stäger, D. Zok, A.-K. Schiller, B. Feng and G. Steinhauser, Environ. Sci. Technol., 2023, 57, 13601–13611. この論文はオープンアクセスかつ転載自由(CC-By4.0)です。https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.est.3c03565
[2] 河田燕、山田崇裕、Isotope News, 2012, No. 697, 16-20, https://www.jrias.or.jp/books/pdf/201205_HOUSYASEN_RIJYUKU_KAWADA.pdf (2023年10月1日閲覧)

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坪村太郎

成蹊大学理工学部で無機化学の教育、研究に携わっています。 低山歩きが趣味ですが、最近あまり行けないのが残念です。