窒素~N 生命現象の基本概念「動的平衡」の確立に寄与した窒素

最も不足しやすい栄養素・たんぱく質

今の日本で栄養問題と言えば、肥満がまず取り上げられる。肥満は生存を脅かす生活習慣病のリスクファクターなので、高齢社会の日本では肥満をひきおこす食べ過ぎが栄養問題として重視されるのである。しかし、食べ足りないことの方が、食べ過ぎよりもはるかに緊急性の高い栄養問題である。
世界では食料不足の人が2018年でも8億2000万人いると推定され、飢餓は今も重大な栄養問題である。飢餓状態の子供の写真をみると、お腹がふくらんでいる場合が多い。お腹がふくらんでいるのはむくみ(浮腫)で、太っているのではない。これはたんぱく質が欠乏していることを示す症状である。
生きていくのに一番目に必要なのがエネルギーであるが、食べ物からエネルギーを必要なだけ得られなくなると体のたんぱく質をエネルギー源として使うことになる。したがって、食料不足による飢餓状態では、まずたんぱく質が欠乏するのである。

日本人のたんぱく質の栄養状態はどのようになっているのだろうか。判断のもとになる食事摂取基準のたんぱく質推奨量は年齢別・性別に示されている。そこで、30歳代を例にとると、2017年国民健康・栄養調査に示されたたんぱく質摂取量は男女とも推奨量を上回っている。しかし、エネルギー摂取量は、男女とも低い身体活動レベルの推定必要量ですら下回っているので、エネルギー不足によるたんぱく質不足は起こっていないのだろうか。エネルギー摂取不足が懸念されるBMI( body mass index 体格指数)18.5未満の低 体重者の割合は男性3.6%、女性13.4%と女性にやや多く見られるが、女性の肥満者(BMI 25以上)の割合は低体重者とほぼ同じである。さらに、食料需給表に示されているエネルギー供給量はエネルギー摂取量の1.3倍と多い上、食事調査から算出されるエネルギー摂取量は実際の摂取量より少ないことはよく知られている。このようなことから、国民健康・栄養調査結果はエネルギー摂取不足の人が多いことを意味しないと考えられる。
現代の日本人の食生活をみると、米飯やパンなど穀類だけでもたんぱく質を15g摂取している。その上に他の食品と組み合わせて空腹を満たす量を食べるなら、エネルギーが不足しないだけでなく、相当偏った食べ方をしない限りたんぱく質推奨量を下回ることはないといえよう。

 

たんぱく質の栄養を窒素の動きでみる理由

私が栄養化学を大学で学んだのは、日本の食料不足はすでに解消されていた1960年代前半である。しかし、最も強い印象を受けた講義内容は、栄養素欠乏とりわけたんぱく質欠乏を防ぐために求められる栄養的な方法論(見方・考え方)だった。
たんぱく質は20種のアミノ酸からなる高分子で、食品中には膨大な種類のたんぱく質が含まれている。しかし、栄養素として捉えるには、このように多種多様な分子を含む食品たんぱく質を一括して扱う必要がある。私たちが必要とする5つの栄養素、炭水化物、たんぱく質、脂質、無機質、ビタミンの中で、窒素を含んでいて摂取量が多いのはたんぱく質だけである。たんぱく質の栄養状態が窒素の動向によって調べられてきたのは、このようなたんぱく質の元素組成の特徴によるものである。

 

たんぱく質の栄養状態がわかる窒素出納

たんぱく質の栄養状態を知る方法の一つに、摂取した窒素量から排泄される窒素量を差し引いた窒素出納がある。窒素出納が負の時は体のたんぱく質が減っていることを意味し、たんぱく質が不足していることを示している。一方、窒素出納が0に達していれば、体のたんぱく質が維持されていることを意味し、たんぱく質は充足されていると判断される。したがって、負の窒素出納値の大きさはたんぱく質不足の程度を表しているといえる。
食品中のたんぱく質も私たちの体内にあるたんぱく質も極めて膨大な種類がある。このように多種多様な物質からなるたんぱく質の動向を窒素(元素)に還元して扱うからこそ、窒素出納がたんぱく質の栄養状態を知る方法になっているのである。

 

動的状態にある体たんぱく質中の窒素

負の窒素出納を示す動物にたんぱく質をより多く与えると、窒素出納は0に近づいていく。しかし、窒素出納が0になっている動物に、より多くのたんぱく質を与えても、窒素出納は0より大きくなることはない。このことは、窒素出納が0であればたんぱく質摂取量の多い少ないにかかわらず、体たんぱく質量が変わらないことを意味する。このような時、食べた窒素(たんぱく質)は体内でどのようになっているのだろうか。
食べたたんぱく質は消化されてアミノ酸になってから吸収される。このアミノ酸中の窒素の体内での行方について、ルドルフ・シェーンハイマーが自然界にわずかしかない窒素の同位体(15N)で標識したアミノ酸を使って追跡した。成熟したネズミに与えられたロイシンの15Nは、3日後に半分以上が体たんぱく質に取り込まれていて、それまでに排泄されたのは1/3に満たなかった。この結果は体たんぱく質にはアミノ酸からの流入(合成)とアミノ酸への流出(分解)が同時に起こっていることを示していることから、シェーンハイマーはたんぱく質の動的状態(dynamic state)と表現したのである。

 

動的平衡と生体恒常性

上述の実験では、成長の止まった成熟したネズミを使っているので、窒素出納は0、いいかえれば体たんぱく質量は変わらない。体たんぱく質量が変わらずにいることは、15Nで標識されたロイシンの取り込みに見合う量のたんぱく質が合成され、同時に同量のたんぱく質が分解されていることになる。このように体たんぱく質の合成と分解が均衡していることをより明確に示すために、福岡伸一は動的平衡(dynamic equilibrium)と呼ぶことを提唱した。さらに、「生命とは動的平衡にあるシステムである」と述べ、動的平衡を生命現象の基本概念に位置づけている。
動的平衡のたとえとして、鴨長明の方丈記の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」がよく用いられる。橋の上から川面を見下ろした写真のように、カヤックが遡ろうとしている流れの様子はほとんど変わらない。川が変わらぬ形で流れ続けていること(恒常性)は、川の水自体が入れ変わっているにもかかわらず流れ込む水量と流れ出る水量とが同じという動的平衡にあるからである。

岐阜県郡上市八幡町吉田川にて

これまで述べてきた体たんぱく質量だけでなく、血液など体内環境もほとんど変わることがない。このような生理現象の特性は生体恒常性(homeostasis)と呼ばれ、この恒常性も動的平衡によって成り立っている。つまり、生理現象を特徴付ける生体恒常性は、動的平衡と表裏一体の関係にあるのである。

 

栄養現象をみることは生命現象をみること

川の流れのたとえに戻ると、流れの恒常性は水の流入と流出との動的平衡によって保たれているので、上流からの水の供給が変われば流れ方が変わる。つまり、水が安定して上流から供給されているからこそ、流れの恒常性が保たれるといえよう。いうまでもなく、水は高い位置の上流から低い位置の下流へと流れ、反対方向に流れることはない。これは、上流から下流までの間に放出される(位置)エネルギーが水を流す力となっているからである。
生体恒常性も、生理現象の動的平衡を保つのに必要な物質とエネルギーが安定して供給されることによって成り立っている。この時に供給される物質も、代謝の流れを続けさせるエネルギーもさかのぼると食べ物から来ているのである。
栄養とは食べ物と体との関係を表す言葉であるので、食べ物と動的平衡の関わりとみることができる。したがって、栄養現象をみることは生理(生命)現象をみることに等しいといえよう。

 

参考書等
芦田淳(1962)『栄養化学概論』養賢堂
吉田昭 他(1987)『新栄養化学』朝倉書店
上代淑人監訳(2001)『ハーパー・生化学』丸善
福岡伸一(2017)『新版動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』小学館
厚生労働省(2014)『「日本人の食事摂取基準(2015)」作成検討会報告書』
厚生労働省『平成29年国民健康・栄養調査報告』
農林水産省『平成29年食料需給表』
FAO ”Global Report on Food Crises 2019”
http://www.fao.org/resilience/resources/resources-detail/en/c/1187704/

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馬路 泰藏

馬路 泰藏

現職時には、主に動物実験による栄養学研究、食生活に関する調査研究に携わり、今も食生活のあり方について関心を持っている。著書に『ミルクを食べる 肉を食べる』、『床下からみた白川郷』(風媒社)『食生活論』(有斐閣)等。趣味はテニス、写真撮影。