日本の国名が元素名になる。現在九州大学教授である森田浩介は、2004年に理化学研究所仁科加速器科学研究センターで超重元素研究チームを率いて113番新元素の合成を果たしました。2016年には「ニホニウム」と命名され周期表へ掲載。118種見つかっている元素でアジア圏が発見し、周期表に掲載されたのは、この「ニホニウム」が初めて。そして今のところ唯一です。元素名に込められた森田とチームの想いは理化学研究所からではなく、IUPACのウェブサイトにだけ詳しく掲載されています。
https://iupac.org/iupac-is-naming-the-four-new-elements-nihonium-moscovium-tennessine-and-oganesson/
「ニホニウム」には日出ずる国を表す国名「日本」の読み方の一つを冠している、などの他に「43番元素にまつわる1908年の小川正孝の先駆的な研究への敬意」も書かれています。さて、その小川正孝の業績とは何か。それがこの小文の主題です。
トリアナイトからの新元素発見
1908年は今から110年以上も前。時は明治の時代です。この年、小川正孝は新元素を発見した予報論文を2編、英国の科学雑誌ケミカルニュースに発表します。1編にはセイロン(現スリランカ)で発見された鉱物トリアナイトに含まれる新元素とその検出のための化学処理の詳細、新元素化合物の性質と固有スペクトル、原子量の推定、周期表の位置についてまとめ、もう1編には日本産輝水鉛鉱にも同様の新元素が含まれるとともに、新元素の豊富なソースとなりうることなどがまとめられていました。
小川正孝は発見した新元素に「ニッポニウム」と名付け「当量はおよそ50なり、おそらくはこの元素はモリブデン(96)とルテニウム(102)との間の空位を充たすものとして、その原子量はおよそ100なるべし」と記載しました。当時はまだ原子番号がなかったので、原子量と周期表での位置で表現していました。この位置は原子番号43番に相当します。43番はテクネチウム。地球にまず存在しない元素で、人類初の人工元素です。では小川がトリアナイトから発見した新元素は何だったのでしょうか。
小川正孝とロンドン留学
小川正孝は元治2年(1865)1月、松山藩士の長男として生まれます。父が江戸の松山藩中屋敷に勤務していたため生まれは武蔵国ですが、戸籍上の出身地は愛媛県松山市です。3歳で明治維新を迎え一家で東京から松山に戻ります。8歳で父を亡くしてから一家は大変苦労しますが、小川の成績は大変優秀。立身出世を目指し14歳で上京します。東京予備門、帝国大学、大学院と進み化学の研究を始めるも経済的な理由で退学、一度就職しますが研究者への夢が捨てきれず、アルバイトで生計を立てながら帝国大学で化学の研究を続けます。その努力が実を結び、第一高等学校(今の東京大学の一部)の教授職を手に入れ、その後さらに国費留学生として渡英機会を得ます。1904(明治37)年、39歳の時でした。
イギリスではユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに所属。希ガスの発見で有名なウィリアム・ラムジの指導を受けます。新しく発見された鉱物トリアナイトに新元素が含まれると予想したラムジは小川にその分析を指示。果たして小川は渡英わずか数ヶ月で新元素の手がかりを発見します。
熱心に実験する小川をラムジも高く評価し、発見した元素に祖国の名を冠し「ニッポニウム」と命名するよう勧めました。留学中に完成しなかった新元素研究は、帰国後の継続により2本の論文にまとまります。この研究が元となり博士号を取得。後の日本化学会賞となる桜井褒賞の第1回受賞者にもなりました。
ニッポニウム検出の困難
小川は実験の名手でした。トリアナイト中のニッポニウムは本当に微量で、取り出せるのは小川しかいませんでした。1911(明治44)年に開学した東北帝国大学理科大学の化学教室教授兼理科大学長に就任した小川は、弟子たちとニッポニウム研究を続けますが、弟子たちもニッポニウムの検出には悩まされたようです。小川は教授、学長といった激務を抱えながら、夜間、休日を利用し、一人でニッポニウム研究を続けます。1919(大正8)年には東北帝国大学総長に選ばれますが、総長になっても研究を続けていました。総長室には1センチメートル大のニッポニウム金属塊が展示されていたそうです。ただ、ニッポニウムの確固たる研究成果をだせぬまま時だけが過ぎていきます。
1925(大正14)年には、ドイツのノダックらが当時最新の分析法であるX線分光分析によって43番元素マスリウムと75番元素レニウムの発見を発表します。ただ、43番はその後確かな証拠が出ず、新元素とは認められませんでした。同じ年に東京帝大の木村健二郎と東北帝大の青山新一がドイツに留学。X線分光分析の手法を学んでいました。1928(昭和3)年に2人はX線分光分析器を日本に持ち込みますが、届いた装置を調整するにはさらに1、2年を要しました。
小川正孝の無念
未だ空白の43番。小川正孝は東京帝大の木村と東北帝大の青山にニッポニウムのX線分光分析を依頼します。しかし不幸にもニッポニウムから43番の信号は出ず、75番レニウムだったと同定されます。1930(昭和5)年、実験中に体調不良を訴えた小川は、その3週間後に息を引き取ります。青山は小川の弟子で、小川のことを気遣ってかX線分光分析で43番の信号が出なかったことだけ告げていたのでしょう。新しいサンプルを作るからそれで再度実験するよう小川は青山に依頼し、青山がそれを引き受ける病室での会話が残っています。
東北帝大で実施したニッポニウムX線分光分析結果の写真乾板が今も残っています。確かに、43番の箇所にピークはなく、75番の箇所にピークが出現しています。
ウラン、トリウムの信号も検出されたので、トリアナイトから抽出したニッポニウムサンプルの分析結果だと分かります。小川の書いた論文の内容と写真乾板から、小川正孝が1908年に発表した新元素は「タングステン(184)とオスミウム(191)との間の空位を満たす75番元素だった」で間違いないようです。43番と75番は周期表の上下位置の関係。小川の間違いは価数の仮定と配置場所だけでした。
研究の総合力
自国名を冠した元素を報告しながらその名を周期表に残せなかった。小川は晩年、強い自責の念に苛まれていました。おそらく木村、青山が小川の死後に真実を公表しなかったのは、確かに発見していながら周期表上の配置を間違い、本来残せていたはずの元素名を他国に奪われてしまった、との不名誉な評価を小川が受けかねないことへの配慮だと推測されます。
当時の日本には、まだ欧米の最先端実験装置を自国の技術で再現する力はありませんでした。留学してその研究手法を学び、実験機器を購入しなければその研究ができない状態でした。研究者個人の技量の高さや着想の素晴らしさも、研究をめぐる当時の日本の総合力が不足して越えられない壁が立ちはだかった。そこに無念を感じずにはいられません。
我が国はその後着実に研究の総合力を身につけ、終戦で一度失いかけた技術をも守り引き継ぎ、「ニホニウム」の発見へとつなげます。研究者の素晴らしいアイデアと日本独自の実験手法の選択に加え、実現させる装置製作技術も培ってきた全てが研究の総合力となり、新元素の発見、周期表初掲載という偉業を果たしたと言えます。
小川正孝の再評価
小川正孝の業績は、前世紀末から今世紀初頭にかけて、現代化学の知識をもってその研究の正当性が解明され、再評価されています。例えば王立化学協会の周期表ウェブサイトのレニウムのページには、小川正孝の先駆的発見が評価、掲載されています。
https://www.rsc.org/periodic-table/element/75/rhenium
小川再評価は今までの科学者、技術者の英知と不断の努力の結晶である科学技術のデータやノウハウに基づいた知見から成し遂げられました。私たちは、100年以上前に偉業を成し遂げた一人の化学者から勇気をもらうとともに、今後も科学技術が生活を支え未来を切り開くよう、若い世代にその魅力を伝え、後進を育成し続けなければなりません。
愛媛県総合科学博物館では、小川正孝の生涯とその業績の現代評価までの軌跡についての展覧会、企画展「小川正孝 アジア人初の新元素発見者」を開催します。期間は2020年10月10日(土)から11月29日(日)まで。本記事でも紹介した、小川新元素発見の物証をはじめ豊富な実物資料で小川正孝を顕彰いたします。
小川正孝の展覧会は世界初。未公表の資料も数多く公開。ニッポニウム発見の物証やそれを解析し小川の再評価を果たした日本人研究者の研究ノート、日本人と新元素発見の関係やニホニウム実験、現在稼働中の新元素探索についても取り上げます。ぜひこの機会にご覧ください。
画像提供:愛媛県総合科学博物館
久松 洋二
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- 小川正孝とニッポニウム 明治の化学者が成し遂げたアジア初の新元素発見 - 2020年9月7日