製鉄と製鋼の歴史

人類史を道具で区分すると、石器、銅器、青銅器の時代を経て鉄器の時代はBC1000年頃からとされます。製鉄法と製鋼法の改良に次ぐ改良によって産業は近代化し、鉄は生活により身近な金属になりました。

鉄との出会いと伝播

人類が初めて鉄に出会ったのは隕鉄(鉄隕石)だったと考えられます。エジプトなどで出土する鉄にニッケルを含むものがあり、隕鉄に由来するとみられています。隕鉄は地球上には産しない組成を有するのです。

鉄鉱石は地球上に広く分布する鉱物で、Fe2O3やFe3O4などの酸化鉄を含みます。人類の鉄との出会いは、鉄鉱石の露頭の上で焚き火をした時や、山火事の跡を歩いた時だったかもしれません。

古代製鉄法の発祥はBC1400年頃、トルコ、イラン、イラクの辺りであったとみられ、日本には主に次の三つの経路で伝播したと考えられています。
順に見ていきましょう。

1)シルクロードを通り漢へ
漢は世界最大の製鉄国となり、BC5世紀頃に鋳鉄ちゅうてつ(炭素含有率2~6.7%程度)がつくられ、その技術は漢から欧州と朝鮮に伝わり、日本へは朝鮮から入りました。鋳鉄は鉄鉱石を木炭で還元するだけででき、そのまま鋳物として使えたので、生活用具から武器まで幅広く使われ、例えば中世までの戦争では鋳鉄の砲弾が使われました。現在も鋳鉄は鋳物として多くの製品に使われています。

2)アラビア海を通りインドへ
インドでもBC6世紀頃から製鉄が盛んに行われ、中国南部を経て日本に伝わりました。戦国時代の「南蛮鉄」はインドの鉄で、鋳鉄を鍛造して内部に残る酸化物(スラグ)を除去してできる錬鉄れんてつ(炭素含有率0.02~0.2%程度)でした。

錬鉄は、既にBC1500~1200年にヒッタイト帝国で製法が確立され、ヒッタイトが没落すると技術者が各地に分散し、鉄器時代が黎明を告げました。錬鉄はある程度の量産ができ、鋳鉄に比べて強いので、19世紀を中心にレールなどに多用されました。エッフェル塔も錬鉄製です。しかし鋼(炭素含有率0.04~2%程度)の量産が可能になると、とって代わられました。

エッフェル塔の鉄材

以上の二つの経路で日本に伝わった技術は、砂鉄を原料としたたたら製鉄として発展し、大正期まで行われました。『出雲国風土記』の飯石いいしの郡には「まがねあり」と、砂鉄を産することが記されていますし、仁多にたの郡には、「諸の郷より出づる鉄は堅くしてもつとくさぐさものを造るにふ」と、この地に産する鉄は堅く、種々の道具を作ることができると記されています。

 たたら(左)とふいご(右)   (島根県・菅谷鑪)

酸化鉄は融点よりも低い温度で木炭によって還元され、鍛冶職人は得られた海綿状の鉄にふいごで送風して温度を上げ、鎚で叩いて還元鉄を分離しました。『村の鍛冶屋』(1912年,尋常小学唱歌)では、「しばしも休まず鎚打つ響き」で始まり、後半に「刀は打たねど大鎌小鎌 馬鍬まぐわ作鍬さくぐわ すきなたよ」とあります。これは、武士の時代には刀や鉄砲といった武器を生産した鍛冶屋が台所や農業で使う生活用具を作る様子を歌っていますが、かつての技術が見てとれます。

3)地中海を通りエジプトへ
ギリシアを経てアルプスを中心とした欧州諸国に普及し、多くの製鉄国ができました。鉄の性質の違いが炭素含有率に起因することは、欧州で18世紀以降に発達した化学によって解明され、近代製鉄は明治期以降日本に入りました。以下で見ていきましょう。

産業革命を支えた製鋼法の改良

種々の機械には良質な鉄が欠かせません。製鉄は高炉こうろが築かれて大規模化しました。高炉では石炭を乾溜して揮発成分を除いたコークスで鉄鉱石が還元され、鉱滓こうさい(鉄鉱石に含まれるシリカやアルミナなど鉄以外の成分)が熔けて分離されて銑鉄せんてつが大量に生産できるようになりました。しかし、銑鉄は鋳物には適していますが、構造材として使うはがね(叩いたり延ばしたりすることができる鉄)としては炭素が数%と多いため、還元時に吸収された炭素を除くことが必要でした。

〝鉄の名匠〟とも呼ばれたイギリスのH.コートは、1783年にパドル(puddle)工程を案出しました。これは、石炭を燃料とした反射炉で銑鉄を半熔融状態にし、空気を送り込みながらパドルでねて酸化的に脱炭素する方法でした。

コートに続いて、1856年にドイツのジーメンス兄弟は、パドル製鋼法で用いる反射炉に蓄熱室を付属させて熱風を送ることで炉内で銑鉄を完全に熔融できるように改良しました。これは炉床が平らなので「平炉」と呼ばれます。次いで1863年にフランスの技術者P.マルタンは平炉に改良を加え、「ジーメンス・マルタン炉」ができました。

しかし、これらの方法は非常に煩雑であったことから、熔けた銑鉄から直接炭素を除く方法が考え出されました。イギリスのH.ベッセマーは、熔融銑鉄を転炉てんろに移し、炉底から直接空気を吹き込んで脱炭させる酸化精錬を行う製鋼法を考案しました。この方法により鋼の生産量が飛躍的に増加し、これが近代的な製鉄・製鋼法の幕開けとされます。

近代製鉄の確立

鉄の製錬と精錬(製錬した鉄から不純物を除去して純度を高めること)が制御できるようになり、金属組織を研究する冶金学が進展した19世紀以降、製鉄はさらに近代化しました。

転炉製鋼では熱源が炭素の酸化熱だけであることから、熔融銑鉄の処理にとどまります。また、空気を吹き込むため鋼中の窒素含量が多く、高品質化には不向きでした。一方で産業が盛んになって屑鉄が増えると、加熱に好都合な平炉法が主流になりました。

こうした中、第二次世界大戦中に鋼材の切断・熔接などに必要な酸素の製造設備が増強されましたが、戦後は余剰になり、製鋼への転用が図られました。戦争は科学技術のいろいろな面に影響したのです。

転炉の炉底から酸素を吹き込む方法では、鋼への窒素の吸収と窒素による炉外への熱量の持ち出しが解消された一方で、吹込口周辺の耐火物の劣化を早めました。そこで、熔融銑鉄の上から酸素を高流速で吹き付ける酸素上吹転炉製鋼法が開発され、現在はこの製法が主流になっています。

 

巨大な鏡面の大きさは後方の樹木と比べると分かります。これは発電機用ロータシャフトなどに用いられるMn-Mo-Ni合金鋼の横断面です。元は直径3.35~3.75m、高さ4.18mの415㌧鋼塊です。(東北大学片平キャンパス・本多記念会館の隣、金属材料研究所1号館の前にあります)

 

 

 

次回は、冶金学の世界的権威として「鋼鉄の父」とも呼ばれる本多光太郎について紹介します。楽しみにしていてください。

 

参考文献
「元素発見の歴史1」M.ウィークス,H.レスター著,大沼正則監訳(朝倉書店,1990年)
「中国化学史」島尾永康著(朝倉書店,1995年)
「中国科学技術史・上」杜石然他編著,川原秀城他訳(東京大学出版会,1997年)
「新編日本古典文学全集5 風土記」植垣節也校注・訳(小学館,2006年)
「元素大百科事典」渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。