弗素(F)の漢字の変化

前回、フッ素が「弗」という漢字を江戸時代に当て字として獲得していたこと、そして明治時代にそこから「弗素」という熟語が形成されたことを紹介した。

明治という時代は、その前の江戸時代に負けず劣らず多様な気鋭が現れ、独自の主張や新たな考え方に基づいて、様々な試みが唱えられ、実験、実践された時代であった。それは、ことばや漢字においても全く同様だった。
清水卯三郎は『ものわり の はしご』(1874年刊)において、フッ素のことを例によってひらがなで、
ふろおりね
と表現した。
社会の変革に伴って、さまざまな分野における学問もまた近代化を図っていくこととなる。専門用語の統一、標準化が求められる中で、化学用語の訳語委員会として化学命名法取調委員会が設けられ、1886年12月に至って『東京化学会誌』において弗素を、
フロル
とカタカナ表記にした。しかし、5年後に1891年刊行された中沢岩太・清水鉄吉編『化学訳語集』p28では、やはり漢字使用の習慣は断ち切れなかったようで、
フロル,弗素
と併記された。
そしてその3年後、竹尾将信ほか編『化学教科書』(1894年刊)では漢字表記の
弗素
を用い、高松豊吉・桜井錠二編『(稿本)化学語彙』(1900年刊)p12「元素及び単根の表」でも「弗素」となり、当て字ながら漢字表記というものの根強さを見せつけた。

そのまま時は流れて昭和も戦後となると、当用漢字による漢字制限が実施された。専門用語についても、当用漢字を基準に整理することが望ましいとされたため、例えば「冶金学」という学問領域は「ヤ金学」と表記し、用語からも表外字を排除して『学術用語集』を編纂した(後に「常用漢字表」に「冶」が追加されたときには、金属工学という呼称が主流となっていた)。
1949年に編纂された学術用語化学専門委員会『新制化学用語集』(文部省監修)は、当用漢字に入らなかった「弗」ではなく、同音の「沸」を選んで、
沸素
という書き換えを採用した。この時に、砒素もまた「比素」と当用漢字での表記とされた。この「沸素」を使う人もいたが、6年後に刊行された日本化学会と文部省による『学術用語集』化学編では、
フッ素
や「ヒ素」という交ぜ書きに変えられ、次第にこれらが標準として、公文書、学校教科書や新聞などで使われ、広く一般にも広まっていった。現行の増訂2版(1986)でもこれらの表記が継承され、維持されている。これに対して、原語による
フルオリウム
の採用を主張する声もあるにはあったが、すでに流れは決していた。
平成期にはネット上で、ラテン語の意味から「气に蛍」という字のほか、やはり歯を強くきれいにするためとして「气に歯」という、日本人らしい字義に基づく造字の提案があった。

お隣の韓国で使われている韓国語では、フッ素をハングルで、
불소
と書いてプルソと読む。漢字の「弗素」をそのまま韓国式で音読みしたものだが、その後、曲折を経て英語からの「プリュオリン」も用いられるようになった。ちなみに、アメリカの貨幣単位のドルもまだ「プル」と言うことがあるが、これも「弗」という字からで、やはり日本から伝播した同じ字による単語であった。このように日本語の影響が思わぬところにも残っている。
漢字の世界からすっかり離れたベトナム語では、現在、英語やフランス語の影響でフッ素を
Flo(フロ)
と独自の外来語音で呼んでいる。

なお、日本では、小中学生の頃に、理科や化学の時間に「元素周期表」を学ぶ。その時に、大抵の教員は、「水平リーベ僕のお船」と唱えて覚えるようにと指示をする。ほとんどの生徒が習う元素の覚え方だ。この「船」の中に、フッ素の「F」が織り込まれている。
筆者が中学生だった頃、初老の教員は、これはもう古い覚え方だし、「リーベ」はドイツ語で愛人、愛するといった意味だから、もう変えた方がいいと話してくれた。けれども新しいものが出てこないので、仕方ないからこれでいくと断ったうえで、やはりこの覚え方を教えられた。
大学に勤めてしばらくたったある時、ゼミで学生たちに確かめてみたら、今でもそうやって教わったと口をそろえて言う。確かに古いし、文言の意味をよくわかっていない。それでは、新しい覚え方を考えてみよう、という課題を出してみた。男女に分けたグループごとに力作が提示された。
板書してもらうと、いくつもの案が出現したが、その中に、「エッチ、変態、理香ちゃん、ベッドで」、以下略すが、女子学生のグループからは、このとても義務教育では使えられそうにないものまで現れた。やはり世に広まるものはそう簡単には作れないことを悟った。ちなみに、H(エッチ)という俗語は、古く海軍で流行ったもので、ヘンタイのローマ字表記の頭文字とされる。今は水素の場合はエイチと、両者を発音し分ける人が多い。
中国では、元素表を初めから「シュイ・チン・リー・ピー」などと1文字ずつ漢字をそのまま読んで覚えていくそうだ。留学生によると、理科に相当する時間に、これらの新出漢字まで覚えさせられ、テストまであったそうだ。実際に教科書を見ると、カタカナのない中国の元素周期表は、確かに漢字で埋まっていた。

最後に、そこに至るまでの中国でのフッ素の漢字について経緯を追っておこう。
清代も後半、洋務運動の中で編まれたマガウアンらの『金石識別』(1868年に翻訳開始、1871年刊とされる)巻2では、フッ素は英語から、
夫羅而林
と音訳された。
一方、カーらによる『化学初階』巻1(1870年刊)では、「原質」(元素)は単字にする方針により、フッ素の「華字母」(中国式の字母)は、

とされた。この字は、日本の蘭学者らによる音訳が影響したのであろうか。音訳用としてもよく使われてきた、いかにも音訳字だとして認識されやすい字が彼我で一致しただけかもしれない。
刊行は遅れたが、同書に影響を与えたフライヤーらの『化学鑑原』(1872年刊)巻1、2では、フッ素の「華名」が
弗気
とされており、後者は中国教育協会による“Technical terms, English and Chinese” (1904年刊) にも採用された。

こうした穏当とも評しうる音訳中心の方法に対して、ビルカンらは、フッ素の性質を表す
消剋
という2字を横にくっつけて1文字とした合字を作って自著の中で用いた。宣教師らによる益智書会も、1898年にそこから「克」を用いた。
また、ロブシャイドの『華英字典』には、
●行のあいだに黃(黄の旧字体)
という造字が示された。「●行のあいだに黃(黄の旧字体)素」とも訳している。辞書がみずから造字をして訳語を示すことが許された中国で最後の時代だった。
これは日本に伝えられ、西周『百学連環』、和田維四郎訳・田中芳男閲校『金石学』や英和辞典などに紹介、使用された。しかし、こうした特定の元素専用の字で、しかも体系性にとりわけ優れているわけでもないものは、先に述べたとおり、「弗素」に駆逐されていった。せっかくの努力も後世の使用にはつながらなかった。

この「弗(素)」は、20世紀に入ってからも南方での名は「弗」、北方での名も「弗」(『東中大辞典』)とあるように全国的に安定して使われたが、辛亥革命を経て1912年から民国期に入ると、任鴻雋は「化学元素命名説」(1915)において、気体の元素には「气」を用いて、

という字を作った。「气」をビリカンが使った「剋(刂は寸も)」に被せて新字を作る試みはそれに先だって1901年に行われ、1904年、1910年の「Technical terms, English and Chinese」には「●(气に尅),弗気,弗、消尅(横に合わせた1字)」と載せられていた。
この字の発音は「弗」と同じである。金偏の造字は、「銀」「銅」など古くからの字からの類推で作り出されたが、さらにそれに応用を加えて、部首を拡張させたのであった。
同年の教育部『化学元素表』に載るなど、元素の性質と発音を体系的に形声式で表したこの新しい字が大方の賛同を得て定着していき、その後、なおも「弗」を支持する意見もあったが、1933年に化学討論会で決議された「化学及化合物定名原則案」において種々の基準をクリアして踏襲され、ついに標準的な漢字表現として確立した。

以上のような複雑な変遷を経て、ベストな表記かどうかは読者諸賢に判断を委ねることにするが、日本は「フッ素」、中国は「氟」に定まったのであった。

 

主要文献
あらかわそおべえ『角川外来語辞典』第二版 1967 1977
斎藤 静『日本語に及ぼしたオランダ語の影響』 篠崎書林 1967
坂出祥伸「清末民国化学史の一側面―元素漢訳名の定着過程」『東洋の科学と技術藪内清先生頌寿記念論文集』(藪内清先生頌寿記念論文集出版委員会編)pp.298-324 同朋舎出版
島尾永康「Lavoisier化学命名法の日本における確立」『科学史研究』Ⅱ10(100) 1971
笹原宏之『日本の漢字』 岩波書店 2006
成 明珍『日中韓三国の専門用語における語彙・文字に関する研究 -医学・化学分野の漢字・漢語を中心に-』 早稲田大学博士学位論文 2015
菅原国香・板倉聖宣「幕末・明治初期における日本語の元素名」『科学史研究』Ⅱ28,29 1989,1990
菅原国香・板倉聖宣「東京化学会における元素名の統一過程」『科学史研究』Ⅱ29 1990
吉野政治『日本鉱物文化語彙攷』 2018 和泉書院
張  澔「中文鹵素名詞,1822-1945 」『成大歴史学報』48 2015 pp.79-120

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笹原 宏之

笹原 宏之

早稲田大学社会科学部教授。漢字圏の言語と文字の変遷と変容を研究し、文献探索、実地調査に明け暮れる日々。かわいい兎を飼っている。
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