元素漢字の未来(最終回)

ここまで、元素名を表記する古今の漢字について、中国、日本、ときには韓国、ベトナムを眺めてきた。辞書に載る字が定まるまでに、さまざまな試行錯誤が繰り返され、人々によって淘汰され、選ばれてきた漢字が非常に多いことに驚かれたことであろう。

漢字に関する知識は、一問一答型のものが試験でも検定でもクイズでももてはやされがちだが、こうした過程を振り返ることで、なぜそれが答えとなったのかという理由が見えてくるはずである。

 

先日、温昌斌『民国科技訳名統一工作実践与理論』(商務印書館 2011)が中国から届いた。10年も前の本だが、こういうしっかりとした本や辞書が届いたり、データベースができたりするたびに、これまでの自身の記述の「答え合わせ」をハラハラしながらすることになる。

たいていの研究者は、こういう苦行とも楽しみともつかぬ作業を繰り返す日々を送っている。幸いにも、酸素に「气に養」が1901年にはあったこと、梁国常は新字を作ることをよしとしたことなど、元素漢字に関しては発端と経緯についての細かな記述が見つかったくらいで、この一昔前の好著によって書き直すべきことは、これまでの連載には見つからなかった。

20年前の論文である賈嬌燕「談純粋新造字」「山東師範大学報」(人文社会科学版) 2001 年第1 期(総第174 期)についても同様であった。

 

近年、日本で新しく発見された113番元素に命名された「ニホニウム」(Nh)の中国語訳がどうなるかが話題となった。

日本のネット上では、まるで次の元号のように予測がさまざまに示され、その結果はニュースなどで報じられた。ネット上には、発音から「●(金爾)」「●(金屰)」、意味から「●(金日)」「●(金和)」「●(金倭)」や「●(金皇)」などの案が唱えられた。なお、戦中には「國」にも「●(囗のなかに皇)」という異体字を用いる人たちがいた。

大学の講義でも、ニホニウムに「1字の漢字を作る、または選ぶとしたら、どの字が良いと思いますか?」と数百名に漢字を尋ねてみた。予想したり創作してくれた「漢字」は100種を超えた。

中国人留学生たちは、「●(日に本)」「●(金に日)」「●(本のしたに日)」「●(日のしたに本)」のように「日」を入れる傾向が現れた。

日本人学生たちの作を少し挙げてみよう。

 

  • (金に委)
  • (金に二)
  • (金に日のしたに本)
  • (金に桜) 日本といえば桜だから。
  • (金に示) つくりがカタカナの「ニホ」っぽいから。
  • (金に囗なかに・) *つくりは日の丸

 

  • (石に日)
  • (石に和)
  • (石に日のしたに本)

 

  • (气のなかに日)
  • (气のなかに和)

 

  • (囗のなかに本)
  • (元に日のしたに本)
  • (元にょうにNH) NHがNIHON
  • (日に元)
  • (日本のしたに素)
  • (二に歩) ニホだから。
  • (歩に歩)
  • (百に十のしたに三) 元素番号から。

 

元素っぽく、「日本」を配置して表現した人もいた。


本日本

 

このようにアイデアは面白くても、実用化された場面が想像しにくいものがほとんどであった。

 

ニホニウムに先だって、1907年に幻の「ニッポニウム」が発見されていたが、それに対しては漢字化や中国語訳がなされた形跡は見当たらない。

113番元素の名称には、「ニッポニウム」はこれとの混乱を避けるためにもう使えず、「ジャポニウム」(Jp、Jn)か「ジャパニウム」が有力とみられていたそうだ。ほかにも、理化学研究所のある和光市から「ワコニウム」、和光市の旧地名「大和町」から「ヤマトニウム」などが案にあったそうだが、2016年に、IUPACに「ニホニウム」が提出され、同年11月に認可された。「日本」には読み方としてニッポンとその変化形としてのニホンとが併存していることが幸いした。ちなみに、Japanはジパングに由来し、ジパングは「日本」(国)の元代ころの北方での発音からと考えられている。

 

この元素に対して、中国の漢字訳はどうであったのだろうか。

2017年に、中華人民共和国の全国科学技術名詞審定委員会と国家語言文字工作委員会とが連合し、化学、物理学、言語学界の専門家を集めて、この113番を含めた新しい4つの元素の中国語名称を定めた。いくらかその制定の内幕が知られるようになっているが、公募も行っており、その間に「ni」という発音に合わせて、「鉨」「鈮」「●(金逆)」「●(金匿)」「●(金兒)」、「hon」という発音に合わせて「鋐」「鈜」「鉷」(hong)、意味に合わせて「鈤」といった案が出ていたとされる。このように、過去に別の元素名に使われたことがあった字も案に含まれていた。また、日本では奈良時代には「●(金兒)」という「かぶと」(兜)を表した字や、「●(金逆)」という「さかほこ」を表す字も、たまたま入っていた。

この中から、「鉨」とする案が選ばれて、教育部の批准を経て公布された。

同年、中華民国国家教育研究院の化学名詞審訳委員会においても、「鉨」(発音はニーハオの「你」。これも「●(人偏に爾)」の略字(簡体字)だが、それと同じ「ニー」3声)と定めた。

中国と台湾は、過去においては元素の訳字に混乱といえる状況を呈していた。かつてはそれぞれが別個に漢字訳の命名を行っていたため、訳に齟齬が多発していたが、それが解消され、字体の違いだけとなったのである。

「鉨」はもとの字体は「●(金爾)」である。これはすでにUnicodeに入っていて(U+9268)、「鑷」「璽」の異体字として「絡絲」「絡絲之具」という意味をもっていた。

この簡化字「鉨」も、元素名に採用されたことを受けて2018年6月に正式に追加された(U+9FED)。2020年には、この字が事実上の国家の公式辞書である『新華字典』(商務印書館)第12版の本文と付録に掲載された。

この「金」の旁の「尓」(一はフのようにはねても同じ字)は、ニホニウムのニという音だけを表している。

ニホニウムなのだから「鈤」としたならば、意味を考えて作られた字となったわけだが、日本が発見したという表現を避けたとか、見るたびに日本のことを連想しかねないからやめたなんてことはないようだ。

「日本」(ニホン)のことを中国人の間ではパソコンやケータイで「霓虹」と打つことが増えた。「ニジ・ニジ」で良い字だと思って中国人留学生たちに聞いたところ、ただ発音が「ニーホン」で「ニホン」と近いから選ばれただけだそうだ。「日本」では「リーベン」、広東語だと「ヤップン」のように、発音が地域ごとにずれてしまう。連載の1回目から縷々述べてきた、中国では意味よりも発音が優先されるという強い表音の傾向がここにも反映している。

また「鈤」は、ゲルマニウムやラジウムに使われたことがあった。ゲルマニウムは意訳的ではなく音訳であったが、後に別の音訳による「鍺」に替えられた。ゲルマニウムと「日」は発音が近いというのは、ゲルマンに「日耳曼」(リーアルマン)を当てていることからも分かるように、リーが反り舌音でジーに近いためである。ジュネーブも、日本では「寿府」だが、中国では「日内瓦」である。

ユーロピウム(Eu)だって、旁にぴったりなはずの「欧」を選んでいなかった。選んだのは「銪」だった。

また、「鎂」も、アメリカ大陸に由来するアメリシウムが発見される前に、マグネシウムに先に用いられていた。そのためであろうが、アメリシウムだって「美」や「米」にならずに「●(金眉)」とされた。

 

予測された字にあった「●(金倭)」は、実は100年以上前に、中国で実際に使われていた。ただし、亜鉛を指していた。それは、明代末の宋応星の『天工開物』に、亜鉛の性質が倭寇の如く猛々しいので「倭鉛」と呼ぶという話が見られる(こちらを参照)。歴史上の倭寇の主体については各方面で議論が続いているが、日本人を連想する人も少なくなかった。

古代中国では、東方の民を「倭」と呼んでおり、朝鮮などを指すこともあった。一人称「わ」が語源とする説もあるのだが、やがてもっぱら日本を指すようになる。奈良時代には、「倭」という字のもつ背が低い(矮星の「矮」と通じる)、柔順といった字義を嫌ったのか、自ら「和」と日本漢字音に基づいて漢字を当て直した(小著『漢字に託した「日本の心」』参照)。そこから「ヤマト」(山処、邪馬台)には「倭」「和」を経て「大倭」「大和」という当て字も起こる。さらに東アジア情勢の緊迫の中で、対外的な称号として、これも中国産と言われる「日本」の語が選ばれたのである。

「●(金倭)」が亜鉛であるということは、中国人留学生たちに聞いても皆わからなかった。「倭鉛」を示したら、1人の中国人女子学生だけが分かった。たまたま調べたことがあって知っていたそうだ。

亜鉛は「鋅」、xin(シン 1声)と、中国人たちには常識だった。

亜鉛は清代には「白鉛」、江戸時代には「亜鉛」と訳された。そのほか、Znと書く記号の基となったZincから、「精」「精琦」「精錡」という音訳が広東語などに基づいてなされた。明治期に岸田吟香が売り出した目薬がそれを用いた「精錡水」であり、看板も残っている。硫酸亜鉛を主成分としたところからの命名であった。

昭和の末に、ジンクピリチオン配合のシャンプーと、テレビCMで聞いたとき、何か全く分からないが、化学的な効果やピリピリとする刺激を感じさせる新鮮な響きをもつ名称だった。亜鉛とは全く語感が異なっていた。

「鋅」には「辛」(はり:のちに針を意味する。からい、つらい)のほか、「●(金星)」「鉦」も当てられたが、みな旁は発音に対する音訳であった。

想像するに、造字をする人は、部首に発音を表す旁をもってきて字を作っては、過去にあった字(廃字)かどうかを辞書で確かめてみるという工程を経ていたのであろう。

 

その他の3つの元素でも、モスコビウムには、「モ」「ス」「コ」のそれぞれの発音に、テネシンにも、「テ」「ネ」「シン」のそれぞれの発音に、オガネソンにも、「オ」「ガ」「ネ」「ソン」のそれぞれの発音に対応させる造字の案が提出されていた。現代では清代よりも短期間に集中的に様々な造字が試みられたわけだ。

「气」という部首に属する漢字では、オガネソンを含めた元素漢字が部首所属字の過半数を占めるに至った。漢字辞典の214部の中で、字が作られてから使われ続けている年数、いわば漢字の平均年齢がおそらく最も若い部首となっている。

 

この先も、科学者たちの絶え間ない努力によって、もうしばらく元素は新たに発見され続けていくことだろう。

漢字の体系には、金偏にX、气がまえにY、氵にZなど、現代でもまだ空き間がたくさん残されている。この先、一瞬しか存在しないような新たな、そして生活上で馴染むことのない元素に対して、どのような漢字が作られていくのだろう。

その時には中国だけでなく、もしかしたら日本でも、これまでの慣習に従った、見たら納得させられるような漢字が出てくるかもしれない。首を捻るような造字のような気もする。いずれにせよ、きっと新しい元素名、元素記号とともに、私たちの目を楽しませてくれるに違いない。

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笹原 宏之

早稲田大学社会科学部教授。漢字圏の言語と文字の変遷と変容を研究し、文献探索、実地調査に明け暮れる日々。かわいい兎を飼っている。

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