塩素(Cl)-塩素水とさらし粉~感染防止の切り札となった手洗い

 塩素は,1774年にスウェーデンのC.シェーレが塩酸を酸化マンガン(Ⅳ)で酸化して得るまでは,濃硝酸と濃塩酸から王水を調製するときに生じる気体として知られていました。黄緑色で刺激性のこの気体は,1810年にイギリスのH.デーヴィーによって新元素であることが確かめられ,「黄緑色の」を意味するギリシア語χλωροςクローロスからChlorineと命名されました。

 

漂白剤としてのさらし粉

産業革命によって繊維工業が近代化すると,繊維製品と原料の化学処理,とりわけ漂白と染色が重要になりました。しかし,漂白が工業化してからも,その方法は天日干し・牛乳残液による酸処理や灰汁あくによるアルカリ処理・石鹸洗浄といった程度でした。これらの方法は作用が温和なので充分な漂白には半年前後を要し,加えて天日干しは日照時間の季節変動や日々の天候に左右されました。こうした点を解決したのが塩素系漂白剤でした。

1758年にフランスのC.ベルトレは,後に塩素と名付けられる気体を灰汁に溶かした液が,繊維をあまり傷めず漂白することを見出しました。ベルトレは,これをジャヴェル水(Eau de Javel)と名付けて工場生産しましたが,輸送の不便さから普及しませんでした。ジャヴェルは工場があったパリ郊外(現・15区)の村の名前で,ジャヴェル水は次亜塩素酸カリウム(KClO)と塩化カリウム(KCl)の混合水溶液にあたります。

RER(イル・ド・フランス,地域圏急行鉄道網)のジャヴェル駅
出典:Chabe01による”Gare de Javel, Paris.”ライセンスはCC BY-SA 4.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

 蒸気機関の改良で知られるJ.ワットは,ベルトレからジャヴェル水のことを聞き,それをS.テナントに伝えました。テナントは1800年,水酸化カルシウム(Ca(OH))の懸濁液に塩素を吸収させた漂白液をつくり,輸送に便利なように乾燥して粉末化しました。これがさらし粉(CaCl(ClO)・HO,高度さらし粉はCa(ClO))です。

 

若き母親の救世主となった産科医

I.ゼンメルワイスはハンガリー(当時はオーストリア帝国)のブダ(現・ブダペスト)に生まれ,1839年から2年間ペスト大学医学部で基礎を学んだ後,ウィーン大学医学部に入りました。ウィーン大学では病理解剖学,打診法・聴診法,皮膚学を学び,1844年に卒業して産婦人科専門医となりました。そして1846年にウィーン総合病院の産科第一病棟の臨時助手に採用されました。

 

 

 

ゼンメルワイスの肖像画を配したドイツの切手
出典:Nightflyerによる”Stamps of Germany (DDR) 1968, MiNr 1389”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

 ウィーン総合病院の歴史は古く,17世紀に開設された軍の病院が総合化して18世紀半ばには世界の医学の中心的存在となり,産科病棟は1784年にできました。
ゼンメルワイスが勤めた頃,産褥さんじょく熱による死者が急増していました。彼は最初の2年間病理解剖に没頭しました。解剖室は産科病棟に隣接し,遺体には困らないほどの多さでした。妊産婦は例外なく若く未来のある人ばかり。その死をどうにかして救おうと,彼は次のように分析しました。
ⅰ)各病棟では年間約3500人の出産を行っている。産褥熱による死亡者数は,第一病棟が第二病棟より常に多い。しかし産褥熱患者は一般病棟に移されるので,病棟別の死亡者数の確認は不十分で,時には調査結果がゆがめられた。
ⅱ)産褥熱は,天然痘のような流行病の一種と考えられているが,流行は病院内だけで,自宅出産の産婦では少ない。産褥熱は伝染性ではない。
ⅲ)出産時に子宮頸管や子宮に付いた傷が大きいほど産褥熱の罹患りかん率は高い。天候・季節による死亡率の変動はない。
第一病棟の産褥熱の多さは一般市民にもよく知られていて,妊産婦の多くは第二病棟を希望しましたが,入る病棟は曜日で決まりました。医師たちは,第一病棟で多い理由に無関心で,1846年に開かれた院内調査委員会が出した結論は,外国人医学生の処置が手荒なために患者の器官を傷付けたことが原因であり,外国人医学生の実習を一時的に中止するという的外れなものでした。しかし,留学生が実習で行う施術はむしろ丁寧でした。

ゼンメルワイスは,1847年,法医学教授のJ.コレチュカが,学生の解剖実習に同伴したときに学生が扱う解剖刀で誤って指を傷付けられ,数日後に敗血症で亡くなったこと,そのときの症状が産褥熱患者と酷似することを知りました。この事例からゼンメルワイスは,解剖した人が「死体微粒子」で汚染され,その手で妊産婦を内診した時に「死体微粒子」が入って産褥熱が起きているのではないかと考え始めました。

ウィーン総合病院の産科では,1820年代に教育の一環として病理解剖を導入しましたが,病棟分割後も男女の学生を均等配分していた時期には死亡率の差異はありませんでした。第一病棟での死亡率が増えたのは,産科病棟で医学生や研修生の人数が急増し,男子学生を第一病棟,女子学生(助産師)を第二病棟に分け,男子学生だけが解剖を行うようになってからでした。医師と男子学生は,解剖後に充分に手を洗わず着替えもしないまま第一病棟に行き,産褥熱は患者,死体,うみが付いたシーツ,そして何よりも解剖した人の手と着衣を介して広がっている。これがゼンメルワイスの結論でした。

 

手洗い推奨をやめなかったゼンメルワイス

ゼンメルワイスは,解剖を行った人に,Chlorina liquida(塩素水)で(後には安価なさらし粉水で)手指から死体の臭気が無くなるまで洗うよう勧め,その結果,産褥熱による死亡率は第二病棟と同程度になりました。
ところが,産科学教授の多くはゼンメルワイスの勧めに反対でした。診察前の手洗いは誰もが面倒がり,何よりも強烈な塩素臭に閉口し,中には洗ったことにする者もいました。反対者たちは産褥熱の発生の季節変動を根拠にしましたが,季節変動は,解剖実習を行う学生数が新学期には多く,彼らが勉学への熱意を失うにつれ解剖実習が減ることを反映しているに過ぎなかったのです。

そもそも医療行為に原因があるという見解は医学界にとって極めて不都合で,消毒など根拠無きものと嘲笑もしました。さらに,それまでの人々は,手洗いには身体を清める精神的効用を認める程度で病気の原因と結び付けることはなく,それは医療従事者とて同じだったのです。

ゼンメルワイスは第一病棟で5年間勤務してウィーンを去り,その後ウィーン総合病院での消毒励行は廃止されました。彼がそれまで自身の考えを学説として発表しなかったのは,当時出産は病院で行われないことも多く,医学界における産科学の位置付けは低かったことも影響したと考えられています。
ゼンメルワイスは1850年にハンガリーに戻り,1855年にペスト大学医学部の産婦人科教授になりました。そして1860年にようやく著書『産褥熱の原因,概念,及び予防』をまとめました。同書の予防に関する章には,Chlorkalk(さらし粉)の消毒効果が説かれ,手をChlorwashungen(塩素洗浄)しないと産褥熱につながることが記されています。

 

 

 

 

 

 

『産褥熱の原因,本態,及び予防』の表紙
出典:”Ignaz Semmelweis 1861 Etiology front page”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

 ゼンメルワイスは,助かるかもしれない女性を産褥熱で死なせるままにするか,あるいは自説を受け入れない産科医の全てを解雇するかのどちらかを選ぶなら,人数の少ない後者を選ぶと述べています。
真実を見出して主張し,手洗いを推奨した妊産婦の救世主は,やがて妄想にさいなまれるようになり,精神病棟での狂乱を経て亡くなりました。

「死体微粒子」はフランスのL.パストゥールによって病巣から分離され,溶血性連鎖球菌であることが1879年に解明されました。これは細菌学の成果ですが,ゼンメルワイスが行った手洗いによる予防法は,病因の細菌学的発見より前の偉大な業績です。
ゼンメルワイスは彼の死後に正しく顕彰されました。彼が学び教鞭を執ったペスト大学医学部は後にブダペスト医科大学となり,創立200周年(1969年)にゼンメルワイス大学と改称され,彼の住居はゼンメルワイス医学史博物館となりました。

 

参考文献■
「近代化学技術史ノート」岡崎達也著(化学同人,1990年)
「医学をきずいた人びと・下 名医の伝記と近代医学の歴史」S.ヌーランド著,曽田能宗訳(河出書房新社,1995年)
「外科の夜明け 防腐法-絶対死からの解放」J.トールワルド著,大野和基訳(小学館,1995年)
「医学の歴史」梶田 昭著(講談社,2005年)
「新編医学史探訪 医学を変えた巨人たち」二宮陸雄著(医歯薬出版,2006年)
「手洗いの疫学とゼンメルワイスの闘い」玉城英彦著(人間と歴史社,2017年)

 

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園部利彦

園部利彦

2017年3月まで岐阜県立高等学校で化学を教え退職。化学(科学)の歴史と科学者に興味があり、趣味は鉱山の旅とフランス語。