ホウ素(B)-広い用途のほかに〝火消し〟もする元素

 ホウ素とその化合物の用途は広く,ガラス,セラミックス,石鹸・洗剤などに多く使われています。そのほかに木材の難燃化処理のための薬剤や,原子炉では中性子吸収材としても使われ,これらは共に〝火消し〟役と言えます。

古くから使われてきたホウ砂

天然のホウ砂は,かつてはチベットやペルシアの荒原に産し,サンスクリット語の名ティンカル(tincal,tincar)で呼ばれていました。ティンカルは鉱物性のホウ砂で交易品となり,駱駝らくだや羊で港に運び出されてヨーロッパや中国に輸出されました。一時期はヴェネチア人が貿易を独占しました。ホウ砂(組成はNaBO・10HO)はガラス,釉薬,金属のろう付けなどに使われ,16世紀にはG.アグリコラによって冶金用の融剤(鉱業や窯業で融解を促進するための添加物で,フラックスとも呼ばれる)としても記述されています。

江戸時代に編纂へんさんされた百科事典『和漢三才図会』の〈蓬砂ほうしゃ〉の項には,『本草綱目』の記述が紹介されています。蓬砂は西南蕃(西南蛮)に産し,西蕃のものは白くて明礬みょうばんのようであり,南蕃のものは黄色くて桃膠とうこう(モモの木の樹脂)のようである,と記され,西方や南方の異国から渡来していたことが分かります。『和漢三才図会』の標題には「鵬砂」,「盆砂」,「硼砂」という表記もあり,現在では「硼砂」が使われます。

イタリアでは1778年,トスカナ地方のホウ酸泉を利用したホウ酸(HBO)の精製工業を伯爵のF.ラルデレルが始め,ホウ酸は英仏に輸出されてホウ砂に加工されるようになりました。
次いで1873年にアメリカ・カリフォルニア州のモハーヴェ砂漠でホウ砂の大規模な鉱脈が発見されました。モハーヴェ砂漠はロサンゼルスの東に位置し,デスヴァレー国立公園の南にあって,世界的なホウ砂の供給地になりました。その中心都市は同州カーン郡の,その名もずばりボロン(Boron)という町で,ここにはホウ砂採掘の歴史を紹介する資料館(Twenty Mule Team Museum)があります。

 

 

 

 

ボロンの町の入口にある看板
 出典:Jey0hによる”an older entrance sign to Boron”ライセンスはCC BY 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

 

ホウ砂の研究から元素の単離へ

ホウ素の単体は自然界に存在せず,ホウ酸塩などとして各種の鉱物に含まれます。地殻中の存在は比較的少ない(クラーク数は0.001%で41位)一方で,微量元素として含むものも入れるとホウ素を含む鉱物は多く知られています。
ホウ酸塩鉱物の一つにウレックス石(ulexite,曹灰硼石そうかいほうせき,組成はNaCaBO・5HO)があります。この含水ホウ酸カルシウム鉱物は塩湖が干上がってできた地層に産することが多く,その名は19世紀のドイツの化学者G.ウレックスの名に因むものですが,テレビ石という通称でも知られています。ウレキサイトは繊維状結晶の平行集合体構造をしていて光ファイバーのような性質を示すので,下に置いた絵や文字が浮き出たように見えます。

 テレビ石を置いたときの見え方(カリフォルニア州カーン郡産)
  上(繊維状結晶の縦方向から撮影): 文字は浮き出て見える
  下(繊維状結晶の横方向から撮影): 文字は見えない

 ホウ砂の化学的組成は18世紀末になっても不明で,ホウ素が元素として発見されたのは19世紀初めでした。その初期の研究として,1702年,オランダのW.ホンベルクが緑ばん(硫酸鉄(Ⅱ),FeSO)の水溶液にホウ砂を入れて熱することによってホウ酸に相当する物質をつくりました。この物質は「鎮静塩」と呼ばれ,鎮痛剤として使われました。
1741年には,フランスのC.ジョフロワが,炎色反応で緑色を呈することを見出しました。A.ラボアジエは,1789年に出版した『化学原論』の中の元素表(33の物質の一覧)に,非金属の一つとしてホウ酸基(Radical boracique)を入れています。

ホウ素の単体を得る試みは,フランスのJ.ゲイ・リュサックとL.テナール,及びイギリスのH.デーヴィーが,1808年にそれぞれ成功しました。ゲイ・リュサックとテナールは,ホウ酸を高温下で鉄によって還元しました。一方,デーヴィーは,ホウ酸水溶液の電気分解で電極上に茶色の固体が生成することを1807年に確認しており,次いでホウ酸をカリウムによって還元しました。
デーヴィーは当初,元素名をボラシウム(boracium)としましたが,その後,ホウ砂から得られる元素で炭素(carbon)に似ていることからboronとしました。なお,ホウ砂を意味するboraxは中世ラテン語がもとになっていますが,それはアラビア語のホウ砂(buraqブラーク)を起源とし,buraqの語源は更にペルシア語で「白い」を意味するburahブラーにさかのぼるとされます。

フランスのF.モアッサンは,19世紀半ばに三酸化二ホウ素(BO)をマグネシウムで還元する方法を考案し,これがホウ素の工業的製法の基礎となりましたが,高純度のホウ素はなかなか得られませんでした。
高純度の単体を初めて手にしたのはアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社のE.ワイントローブでした。彼は,1909年,塩化ホウ素(BCl)に過剰量の水素を加え,高圧の交流による電弧で還元反応を行い,純粋なホウ素を単離しました。

 

木材の難燃化処理薬剤としてのホウ酸

8月3日は,ホウ酸を使った木造建築物処理への認知度向上を目的として日本ホウ酸処理協会(一般社団法人)が定めた「ホウ酸処理の日」です。難燃化技術は,古代ローマ時代以前からの木材難燃化に始まりますが,近代以降では,1786年にフランスの劇場で起きた火災を契機に繊維の難燃化も研究されました。
木材が熱せられると,組織が熱分解して可燃性気体が生じ,燃焼が始まると燃焼熱によって熱分解が更に進んで発炎に至ります。そこで木材の燃焼は次のように二段階で進行すると考えられます。
① 燃焼または炎焼(flaming):熱分解で生じた可燃性気体が発炎して燃える。
② じん焼または余燼(glowing):炭化した残渣が赤熱しながら燃える。
難燃化処理剤は,①を抑えることで防炎効果を有するものと,②を抑えることで防燼効果を有するものに分けられます。ホウ酸系薬剤のほかにリン酸系,ハロゲン系の薬剤が知られていますが,リン酸系,ハロゲン系の薬剤はダイオキシン類やホスフィンなどの有毒な気体を生じるのに対して,ホウ酸系薬剤はこうした環境への負荷が少ないことが特徴です。

 

原子炉材料としてのホウ素の同位体

自然界に存在するホウ素には,10B(存在比19.9%)と11B(80.1%)の2種類の同位体があります。このうち10Bは強力な熱中性子吸収材で,原子炉では燃料の反応度を直接に制御することができます。10Bは天然のホウ素から濃縮によって精製され,その方法には低沸点のホウ素化合物であるハロゲン化ホウ素の分別蒸溜,有機ホウフッ化化合物を用いた気液交換があり,現在では両者を組み合わせた化学交換蒸留法で行われます。

一般に,加圧水型軽水炉(PWR)の出力制御は,主として制御棒(中性子吸収材)と冷却材(冷却水)中のホウ素濃度によって行われます。制御棒はホウ素やカドミウムを棒状や板状の容器に入れたもので,炉心に出し入れされます。PWRの一次冷却水は沸騰しないため,非揮発性成分が燃料表面に濃縮することがないので薬品を添加することができますが,沸騰水型軽水炉(BWR)では一次冷却水が沸騰するためそれができず,制御は制御棒によって行われます。しかしBWRには,制御棒による緊急停止が不能になった場合のためにホウ酸水注入系が備えられています。

1986年4月26日の深夜,ウクライナ共和国の首都キエフの北方に位置するチェルノブイリ原子力発電所で,緊急停止の実験中に4号炉(黒鉛減速沸騰軽水圧力管型,出力100万㌗)が爆発を起こしました。その翌日以降,再臨界を防ぐためにホウ素塊がヘリコプターで炉心上空から投下されました。このほかにも鉛塊,粘土,砂など計5000㌧が投下され,5月6日には放射性物質の放出が事故直後の0.5%にまで低下しました。
2011(平成23)年3月に東京電力・福島第一原子力発電所の1~4号機(全てBWR)に起きた事故では,事故直後から1~3号機にホウ酸水が断続的に注入されました。まだ記憶に新しい重大な事故でした。

 

参考文献■
「東洋文庫476 和漢三才図会8」島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注(平凡社,1987年)
「チェルノブイリ・クライシス 史上最悪の原発事故PHOTO全記録」著作権者マウント・ライト・コーポレーション他(竹書房,1988年)
「科学用語 独-日-英 語源辞典 ラテン語篇」大槻真一郎著(同学社,1997年)
「原子炉水化学ハンドブック」日本原子力学会編(コロナ社,2000年)
J. Wisniak, “Borax, Boric acid, and Boron-From exotic to commodity“, Indian Journal of Chemical Technology, 12, 488(2005)
「微量元素よもやま話[1] ホウ素」,高橋英一,農業と科学,579,1(2006)
「元素大百科事典」P.エングハグ著,渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)
「楽しい鉱物図鑑」堀 秀道著(草思社,2013年)
「木材の難燃処理」,安藤恵介,木材保存,44,184(2018)
「すぐに役立つ 366日記念日事典・第4版」加瀬清志著(創元社,2020年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。