鉛(Pb)-古くから幅広く使われてきた金属

 鉛は,人類の歴史の中で古くから利用されてきた金属の一つです。鉛は軟らかいので強度が求められる武具や生活用具類には使われにくく,毒性を有することから,代替品ができると,その用途では使われなくなり,生産と使用の歴史において隆盛と衰退を繰り返してきました。現在の身近な用途は自動車用などの蓄電池です。

鉛の利用とその歴史

鉛を表す語は,lead(英語),plomb(仏語),Blei(独語),μολυβδοςモリュブドス(ギリシア語)などです。このうちギリシア語は「暗い」を意味する語で,鉛がモリブデン鉱物と混同されていた名残です。(⇒モリブデンについてはココをクリック)

古代ローマでの鉛の用途として最も多かったのは用水設備であるとされます。具体的には,水路・水槽の内張材,水道管などで,水道管は鉛板を丸めて作られて鉛や半田で接続されました。さらには,食糧,飲料の容器としても使われていました。
古代ローマ人は,低融点で軟らかい金属のことをプルンブム(plumbum)と呼び,鉛は黒いプルンブム(plumbum nigrumニグルム),すずは白いプルンブム(plumbum candidumカンジダムやplumbum albumアルブム)と呼ばれていました。仏語のplombはこれらから派生したと考えられ,英語(lead)では語頭のpが脱落しています。また,英語で「鉛管工,水道屋」はplumber,「配管工事」はplumbingです。独語のBleiは,鉛の青味を帯びた光沢に由来するようで,「青い」を意味するblue(英語)やblau(独語)と同系統の語です。

歴史上,鉛は銀と同時期に登場し,BC6000年には既に使われていました。鉛の生産量は,今から約3000年前に貨幣鋳造が始まると増加し,その次には約1000年前に銀の産出量が増えると再び増加しました。鉛と銀は共に方鉛鉱(主成分はPbS)から得られるので,両者は密接に結び付いていて,銀鉱山の繁栄は鉛の産出を増やし,鉛鉱山の繁栄は銀の産出を増やしました。
方鉛鉱は,エジプト先王朝時代から粉末にして目の周りに塗られました。クレオパトラも方鉛鉱やエメラルドの粉末で飾ったとされます。また,白色顔料としての鉛白(塩基性炭酸鉛,2PbCO・Pb(OH))はBC4世紀頃には使われていました。
古代ギリシアの哲学者でアリストテレスの弟子であったテオフラストスは,『石について』で鉛白の製法を次のように記しています。-「土器に鉛を入れ,強い酢の上に置く。10日ぐらい放置すると,かなりの厚さのさびのようなものができる。(中略)き取ったものはたたいて粉にし,長い間ゆでる。最後に容器の底に沈澱したものが鉛白である

 

 

 

 

 

古代エジプトの女性ミイラのマスク
出典:”Mummy Mask of a Woman”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

古代エジプトでは装身具や漁網のおもりなどに鉛が使われました。バビロニアでは金属棒で鉛板に文字を刻したとされます。鉛を接合剤として使う手法はBC3000年頃には始まり,メソポタミアやローマの遺跡からの出土遺物には半田で接合された器物があります。半田付けは今日でも広く使われますが,無鉛半田に変わりました。
古代ローマでは,屋根をくのに鉛板が使われました。薄くても重いので風で飛ばされにくく,切断しやすく様々な形状の加工が容易だったからでしょう。また,大型船には喫水線の下に鉛板が張られ,重心を低くして安定させると共に,船体表面への生物の付着を抑えました。

15世紀半ば,ドイツのJ.グーテンベルクはブドウ(葡萄)の搾汁機を改造して印刷機械を考案したとされ,それに伴って鉛合金の活字が作られるようになりました。以後,19世紀末までの約5世紀の間,活版印刷が続きました。このうち新聞印刷では,20世紀になると,紙型に鉛合金を鋳込んで印刷用の凸版とっぱん鉛版えんばん)を作る方法が活字組版に取って代わり,1枚ずつ紙を挿入する枚葉式の場合は平鉛版,輪転機で連続紙に印刷する場合には湾曲した丸鉛版が使われました。

 

鉛の弾丸とその歴史

銃火器が発明されて以来,弾丸は銃と共に改良されてきました。初期の大砲や鉄砲では発射口から火薬と球形の弾丸を入れる前装式でした。しかし銃の命中精度は低く,銃は銃剣を伴った近接武器でした。銃撃後,歩兵たちは次の発射まで敵に間近に迫って銃剣で戦いました。鉛以外の金属製弾丸は鉛弾に比べて飛距離が短いことが欠点でしたが,戦国時代の日本では,鉛のほかに銅や鉄の弾丸もあり,一部は輸入もされていました。

鉛弾が,その重さゆえにより遠くまで飛ぶ様子は,例えば『蕃談』に述べられています。
『蕃談』は,江戸時代に漂流を経て無事生還した次郎吉が経緯の一部始終を口述し,それを古賀謹一郎(後の蕃書調所頭取)が筆記し考証を加えたものです。次郎吉は越中国の廻船,長者丸(650石積)の水夫でした。長者丸は,1838(天保9)年の晩秋に気仙郡唐仁とうに村(現・岩手県釜石市唐仁町)を出港し,外洋に出て強い西風を受ると漂流しました。漂民たちは,翌年春になって太平洋上でアメリカの捕鯨船に救護されました。その後はハワイ,カムチャツカ,アラスカと運ばれる間に遊覧もし,5年後に択捉えとろふ島沖で日本の役人に引き渡されました。

次郎吉らを最後に送還したロシア船プロミゼル号が択捉へ近付いた頃,大砲の試射が行われました。「試射の時は一貫五百匁余の鉄の弾丸に火薬一升ほどを詰めて発射し、その威力を調べ」ました。次郎吉もロシア人と共に帆柱に登って見物します。弾丸は海面上を水平に飛び波頭を突き抜けて見え隠れしながら進み,次郎吉はしまいには見失ってしまいました。
ロシア人は着弾を見届け,2露里ろりの所まで達したことを確認しましたが,これでは力が弱くて役に立たないとして,次に鉛弾を試射すると5露里も飛びました。「鉛は鉄より重いので、はげしい勢で遠くまで飛ぶ。そのため平生は鉄の弾丸を使うが戦闘の際は鉛の弾丸の方がいいという話だった。しかしこの説はあまりあてにならないと思われる」とあります。(巻二〈五 武備〉より抜粋,露里(верстаヴィエルスタ,ロシア里)≒1067m)

大きな弾丸は割り鋳型で鋳造されました。割り鋳型は二つまたはそれ以上に分かれる鋳型のことで,鋳造後に鋳型を分割してから製作物を取り出します。したがって小さな弾丸には割り鋳型は不向きでした。
イギリスのカンバーランド公ルパート王子は王立協会のフェローでもあり,発明に関心があった人で,1663年,直径3㎜ほどの鉛弾を作る改良法を考案しました。
王立協会で王子の友人であった物理学者のR.フックは,『ミクログラフィア』(1665年刊)の〈観察Ⅵ〉で,その方法を詳しく説明しています。それによれば,鉛を融かしてから雄黄ゆうおう(硫化ヒ素,AsS)を加えてよく混ぜ,細かい目のふるいを通して桶の水に注ぎ入れます。すると雄黄は水に溶け,小粒状の鉛が残ります。最後に,水から取り出してフライパンで熱し,乾燥させます。

 

 

 

 

 

『ミクログラフィア』のタイトルベージ
出典:Robert Hookeによる”Micrographia by Robert Hooke (1667) title page”ライセンスはPD(WIKIMEDIA COMMONSより)

銃身内壁の線条で弾丸に旋回運動を与えることで弾道を安定させる方式は,15世紀末には知られていましたが,前装式銃では弾丸の装塡の煩雑さが課題でした。これを簡便化したのがフランスの陸軍士官H.デルヴィーニュで,1826年のことでした。デルヴィーニュの改良は,銃身の内径より小さい径の薬室を銃身後部に設けたことです。銃口から棒を差し込んで突き固めると,火薬は薬室の中で押し固められ,薬室との境界で止まった弾丸はつぶれて薬室に蓋をします。

次いで1849年,フランスの砲兵大尉F.タミシエは,弾丸に予め溝を刻むことで弾道を安定化する工夫をしました。それまでの施条砲から発射された弾丸は発射時の向きを維持する傾向はありましたが,弾道の後半には不規則な動きをしました。一方,球形弾は形状の対称性のために空力特性は安定していました。
タミシエは,弾丸を先端が尖ったドングリ型にし,後部に溝を入れることで空気抵抗を増加させました。矢の矢羽根やバドミントンのシャトルコックの羽根のようにすれば,飛行中の安定性が増すと考えたのです。これがミニエー弾(Minié ball)で,しいだまとも呼ばれ,次の写真のように三条の溝(タミシエの溝)が刻まれています。

アメリカ南北戦争時代のミニエー弾
出典:PumpkinSkyによる”American Civil War era Minié balls.”ライセンスはCC BY-SA 3.0(WIKIMEDIA COMMONSより)

現在,鉛がむき出しの弾丸は狩猟用の散弾銃,あるいは古式銃で使用されるぐらいですが,発射時の摩擦などで銃身の内壁に鉛が付着しやすいという短所があります。
鉛弾で捕獲した餌を食べた動物や,鉛で汚染された水域の水鳥などの鉛中毒の事例から,鉛弾は世界中で規制され,日本でも2000(平成12)年度猟期から水辺域での鉛散弾の使用制限が行われるようになりました。

 

鉛でない「鉛」と鉛

「鉛直」は鉛錘えんすいなどのおもりを吊り下げた糸が示す方向(鉛直線)のことで,垂直は水平面に対して直角の方向ですが,鉛直は重力の方向です。また,鉛印本えんいんぽんは洋式活版で印刷された本の言い方です。「鉛槧えんざん」の「鉛」は鉛粉や胡粉ごふん(白色顔料),「槧」は薄く削って字を書く板木を表し,槧に鉛粉で文字を書き胡粉で塗り消したりしたことから,文章を書くことや文筆に携わることを表すようになりました。これらはほぼ単体の鉛のことだと言えるでしょう。
しかし,黒鉛(炭素),亜鉛,蒼鉛(ビスマス)は「鉛」の字を使っていますが鉛ではありません。「鉛黛えんたい」は白粉おしろいまゆずみ(眉墨,アイブロー)のことで,化粧を意味する語です。白粉は「鉛華えんか」とも言い,鉛白えんぱく(塩基性炭酸鉛,2PbCO・Pb(OH))という鉛の化合物が使われました。

次に,「鉛刀えんとう」はなまくらな刀,ぐにゃぐにゃの刀のことで,鈍刀どんとうとも言います。「なまり」は「なまる(鈍る)」に通じ,鉛刀は不出来な刀のにぶい切れ味を表現していて,切れ味鋭い刀と較べられています。しかし,「鉛刀一割えんとういっかつ」と言えば,その鈍い刀で物を断ち切ることから,我が身の微力を謙遜して言う場合や秘めたる力を言う場合に使われます。
自己の才力を卑下して言う語には「鉛駑えんど」もあります。「駑」はのろま・・・な馬,駄馬のことで,優れていない様が鉛と対になっています。だとすれば,鉛駑の「鉛」は単体の鉛の意味ということになるでしょうか。

 

参考文献
「東洋文庫39 蕃談 漂流の記録1」室賀信夫・矢守一彦編訳(平凡社,1975年)
「元素発見の歴史1」M.ウィークス・H.レスター著,大沼正則監訳(朝倉書店,1990年)
「技術の歴史2 原始時代から古代東方・下」C.シンガーら編,平田 寛ら訳編(筑摩書房,1984年)
「技術の歴史5 ルネサンスから産業革命へ・上」C.シンガーら編,田中 実訳編(筑摩書房,1987年)
金属資源レポート2007.9「歴史シリーズ鉛(1)」中島信久(http://mric.jogmec.go.jp
「疾患別医学史Ⅲ」K.カイプル著,酒井シズ監訳(朝倉書店,2006年)
「毒性元素 謎の死を追う」J.エムズリー著,渡辺 正・久村典子訳(丸善,2008年)
「元素の名前辞典」江頭和宏著(九州大学出版会,2017年)
『ミクログラフィア』,”Observ.VI.Of small Glass Canes”の中の”To make small shot of different sizes; Communicated by his Highness P.R.”,ミシガン大学DLXS(Digital Library eXtension Service)(https://quod.lib.umich.edu

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。