錫(Sn)~鹿児島の錫鉱石と中津川・恵那のペグマタイト

 

日本国内では、すず鉱石は兵庫県や鹿児島県で多く産出しました。錫のお話の二回目は、国内の産地のうち、鹿児島県と岐阜県の鉱山に関連した話題です。

鹿児島県の錫山鉱山と錫門

島津家の別邸であった名勝仙巌園せんがんえん(磯庭園とも,鹿児島市吉野町)に、粘土を焼いた屋根瓦ではなく錫板でかれた朱塗りの門があり、「錫門」と呼ばれます。築庭されたときは正門でしたが、第27代藩主島津斉興なりおきの時代に庭園が拡張されてからは中門になりました。

鶴丸城とも呼ばれる鹿児島城(鹿児島市城山町)の堀は、かつて鹿児島湾(錦江湾)とつながっており、城から仙巌園へ行くには、堀から舟に乗って湾に出ました。錫門の手前約10mの所に舟着場があり、錫門は藩主と嫡男だけが通る特別な門でした。

錫門(仙巌園)(平成23年10月撮影)

鹿児島では、江戸時代初期の1655(明暦元)年頃、島津家の家臣の八木元信が本山峠で錫鉱を発見し、私財で開発しました。錫山鉱山は1700(元禄14)年に藩営となり、1853(嘉永6)年には約90㌧の錫を産出しました。労働者は本州からも集められ、300余人を数えました。以来、錫とその製品は藩の特産となり、大島のつむぎ、屋久島の杉製品、種子島のはさみ、薩摩切子、薩摩焼などと共に知られるようになりました。

鉱山は、現在の鹿児島市下福元町に位置します。ここはかつては谷山市(1957(昭和32)年から10年間あった人口約4万人の市)で、山地と錦江湾に挟まれた南北に細長い地域です。その錫山地区には、奉行所跡、山の神を祭った大山祇おおやまづみ神社、坑道跡、錫鉱発見地の石碑、露天掘り跡があります。また、鹿児島市立錫山小中学校の校門付近には、鉱石の破砕に使われた石臼が保存されています。

錫山鉱山は、昭和に入ってからは鉱業会社によって経営され、1979(昭和54)年の産出量は84.5㌧で全国第2位を誇りました(首位は兵庫県養父やぶ市の明延あけのべ鉱山)。しかし、1980年代に中国から安価な錫が輸入されるようになると徐々に衰退し、1986(昭和61)年に閉山になりました。

日本のペグマタイト三大産地の一つ:岐阜県の砂錫

錫鉱石はペグマタイト中に多く産します。ペグマタイトは大きな結晶から成る火成岩で、含まれる鉱物の粒が粗いことから巨晶花崗岩きょしょうかこうがんとも呼ばれます。ペグマタイトは、種々の岩石が固結した後に残ったマグマがゆっくりと冷やされてできるので、結晶が大きく成長しているのです。

錫鉱石は密度が大きく、岩石が風化して軽い成分が運び去られた後の残留物に多く含まれます。こうしてできた鉱床が「漂砂ひょうさ鉱床」で、錫鉱石の埋蔵は、岩石の風化が速い南西アジア(中国,インドネシア,オーストラリアなど)と南米(ペルー,ブラジル,ボリビアなど)に多いのです。世界の金属錫の生産量では3割余が中国で、これにインドネシア、ペルー、マレーシアが続きます。

錫工芸の食器(左:マレーシア,右:ドイツ)

岐阜県・中津川地方の砂錫はペグマタイト性の鉱床と漂砂鉱床の産物です。木曽川をはさんで恵那市、中津川市の市街地の対岸にあたる蛭川ひるかわ、福岡、苗木の各地区には、花崗岩が広く分布します。ここでは、上部を覆っていた流紋岩が削り取られて岩体の上部が露出し、花崗岩中に島状に生成した大きさ数㎝~数十㎝のペグマタイトを見ることができます。中津川・恵那地域は、滋賀県の田上たなかみ地域(大津市)、福島県の石川地域(石川郡石川町)と並んで、ペグマタイトの三大産地として知られています。

中津川市苗木からは、明治期に髙木勘兵衛という事業家と長島乙吉という鉱物研究家が輩出しました。髙木は1884(明治17)年にこの地で砂錫を発見し、有志と共同で鉱区権を設定した人物です。採掘権を得た三井物産は、ここに製錬所を建てて操業しましたが、鉱床は田畑の間を流れる沢の狭い範囲にあったため生産規模の拡大が難しく、1920年頃には衰退しました。

錫鑛紀念碑(中津川市)(平成30年9月撮影)

髙木はまた、明治半ばに東京の神田小川町で金石舎きんせきしゃという鉱物・宝石の店を創業しました。そして長島は小学校を卒業するとすぐに上京して金石舎に住み込み、鉱物標本の製作に従事しました。

ところで金石舎には、小石川の病院に入院した妹トシの見舞いに上京した宮沢賢治が蛋白石たんぱくせき(オパール)や瑪瑙めのうなど岩手産の石を持って売り込み交渉に訪れています。(『校本宮澤賢治全集 第十四巻』の年譜では、1918(大正7)年12月29日の項で、金石舎と水晶堂での交渉を〔推定〕としています)

賢治は少年時代、植物採集と共に鉱物採集にも熱中し、小学生の頃には”石ッコ賢さん”とあだ名されたほどでした。彼の作中にはいろいろな金属・宝石・鉱物、地質学用語が登場しますが、「インドラの網」という作品に、「その秋風の昏倒こんとうの中で私は錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました」という表現が出てきます。(インドラの網(因陀羅網いんだらもう)とはインドラ神(帝釈天)の宮殿を飾る宝玉の付いた網のこと)      さて、「錫いろの影法師」からはどんな影法師をイメージされますか?

 

参考文献:
「錫山鉱山史」木原三郎著,有山長太郎編(1970年)
「校本宮澤賢治全集 第八巻」「同 第十四巻」宮沢賢治著(筑摩書房,1984年)
「鹿児島県地学のガイド・上」「同・下」鹿児島県地学会編(コロナ社,1991年)
「リヒトホーフェンと錫山鉱山」上村直己著(熊本大学学術リポジトリ,2005年)
「鹿児島県の歴史散歩」鹿児島県高等学校歴史部会編(山川出版社,2008年)
「元素大百科事典」渡辺 正監訳(朝倉書店,2008年)

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園部利彦

2017年まで岐阜県の高校教諭(化学)。2019年に名古屋工業大学「科学史」,2020年に名古屋経済大学「生活の中の科学」,2022年,2023年に愛知県立大学「教養のための科学」を担当。趣味は鉱山の旅とフランス語。