リン~P 代謝系のスイッチ:酵素(たんぱく質)のリン酸結合

若い頃、趣味のテニスは昼休みに昼食を食べた後でするのが日課だった。しかし、夏になるとテニスコートはとても暑い。それでも昨今のような猛暑日はめったになく、熱中症の危険性が今ほど強く言われていなかったこともあって、夏でも真昼の炎熱の中でテニスに興じていた。ある日、夏は日が長いので、涼しくなった夕刻の明るいうちにテニスをしようとの提案があった。そこで、仕事が終わった夕刻にテニスをすることになった。テニスを始めてから15分くらい経った頃、足がぱたっと動かなくなってしまった。これは困ったと思っていると、しばらくしてまた足が動き始めた。

 

血糖値を上昇させるアドレナリンとグルカゴン

この時、身体の中で何が起こっていたかを、推測してみよう。テニスをすれば当然エネルギーが必要なので、血液中のグルコース(ブドウ糖)=血糖もエネルギー源として使われる。昼食後にテニスをしている時は食事からのグルコースが補給されていたのが、夕刻はその補給がないため血糖値が下がってしまった。脳はエネルギー源として基本的にはグルコースしか利用できないので、血糖値の低下によるエネルギー不足の危険を脳が察知して身体を動かさないように指令を出したと思われる。血糖値が下がると副腎からアドレナリンが、膵臓からグルカゴンが分泌され、これらのホルモンの作用で血糖値が上昇する。こうして、脳のエネルギー危機が解消され、再び動けるようになったのではないだろうか。

 

血糖値が上昇する仕組み

脳は全身を制御する中枢なので常に正常に働いている必要があるが、エネルギー源として基本的にはグルコースしか利用できない。そのため、私たちの身体には血糖を一定濃度以上に維持する仕組みがいくつも備わっている。その一つがアドレナリンとグルカゴンの作用である。これらのホルモンが血糖値を上昇させるのは、主としてグリコゲンの分解を促進するからである。グリコゲンは、デンプンなど食事中の炭水化物を消化吸収したグルコースから作られる多糖類で、肝臓と筋肉に含まれるグルコースの貯蔵物質である。

このグリコゲンを分解する酵素がホスホリラーゼである。筋肉ではアドレナリンが、肝臓ではアドレナリンとグルカゴンが、最終的にはホスホリラーゼを活性型に変え、グリコゲンの分解を促進する。グリコゲンは分解されるとグルコース1リン酸(G-1-P)を生じ、G-1-Pはグルコース6リン酸(G-6-P)に変換される。
肝臓では、G-6-Pはグルコースになって、血液に放出される。また、筋肉ではG-6-Pはそのまま代謝されてエネルギー源となるので、血液からグルコースを取り込む必要性が低下する。このような肝臓からのグルコースの供給と筋肉へのグルコースの流入減少によって、血糖値の上昇が引き起こされるのである。

 

ホスホリラーゼを活性型に変える仕組み

ホスホリラーゼが活性型に変わる仕組みの一端を、図左上に沿って説明する。不活性型のホスホリラーゼbは、リン酸化されて活性型のホスホリラーゼaになる。ホスホリラーゼをリン酸化するのがホスホリラーゼキナーゼaである。このホスホリラーゼキナーゼも、不活性型のホスホリラーゼキナーゼbがリン酸化されて活性型のホスホリラーゼキナーゼaになる。ホスホリラーゼキナーゼをリン酸化するのは、ホルモンの作用で作られたサイクリックAMP(cAMP)によって活性型になるcAMP依存性プロテインキナーゼである。つまり、グリコゲン分解の促進には、二つの酵素、ホスホリラーゼとホスホリラーゼキナーゼのリン酸化が必要なのである。

 

血糖値の上がりすぎを止める

アドレナリンとグルカゴンは、以上のような仕組みで血糖値を上昇させる。しかし、糖尿病でみられるように、高血糖状態が続くと身体に様々な障害を引き起こす。そこで、血糖が高くなるとアドレナリンとグルカゴンの分泌が減少するとともに、血糖値を低下させるホルモン、インスリンが膵臓から分泌される。この時、活性型のホスホリラーゼaは図左下に示すようにプロテインホスファターゼ-1によってリン酸基が除かれて不活性型になる。図には示していないが、ホスホリラーゼキナーゼaも同じ酵素でリン酸基が除かれて不活性型になる。こうしてグリコゲンの分解が止まり、血糖値の上昇も止まる。

 

グリコゲンの分解と合成の関係

ここまでグリコゲンの分解のみについて述べてきたが、グリコゲンが作られる経路の調節と合わせてみることにする。すでにあるグリコゲンにグルコースを付加する反応は、ホスホリラーゼによるグリコゲンの分解の逆反応で起こるのではない。グルコースをグリコゲンに付加するのは、ホスホリラーゼとは異なるグリコゲンシンターゼである。
グリコゲンシンターゼは、ホスホリラーゼの場合と反対で、図右側のように活性型がリン酸化されると不活性型になり、不活性型からリン酸を除くと活性型になる。グリコゲンシンターゼをリン酸化するのはホスホリラーゼを活性型に向かわせるcAMP依存性プロテインキナーゼであり、リン酸を除くのはホスホリラーゼを不活性型にするプロテインホスファターゼ-1である。このように同じ酵素が使われているので、グリコゲンの分解の開始と合成の停止、反対に分解の停止と合成の開始を同時に起こすことができる。さらに、酵素にリン酸が結合しているか否かが、グリコゲンの分解、合成のどちらに向かうかを決めるスイッチになっている。シェークスピアの戯曲ハムレットの “To be or not to be, that is the question.” になぞらえて言えば、酵素(たんぱく質)にリン酸結合が「あるかないか、それが問題」なのである。

 

代謝調節のスイッチ:たんぱく質のリン酸結合

ここまでグリコゲンの合成・分解の方向がそれに関わる酵素のリン酸結合の有無によって切り替えられていることを述べてきた。私たちの体内には、酵素等たんぱく質にリン酸を結合させるプロテインキナーゼ、リン酸を除くプロテインホスファターゼが何種類もある。これらの酵素は様々な場面で物質代謝の進行・停止の切り替えに機能していることが分かっており、たんぱく質とのリン酸結合は代謝調節のスイッチとして働いているのである。

 

参考書等
上代淑人監訳『ハーパー・生化学』(2001)

 

The following two tabs change content below.

馬路 泰藏

現職時には、主に動物実験による栄養学研究、食生活に関する調査研究に携わり、今も食生活のあり方について関心を持っている。著書に『ミルクを食べる 肉を食べる』、『床下からみた白川郷』(風媒社)『食生活論』(有斐閣)等。趣味はテニス、写真撮影。